【平成21年4月7日判決(大阪地方裁判所 平成18年(ワ)第11429号) 特許権侵害差止等請求事件】

【判旨】
特許の出願段階で締結された実施許諾契約において、許諾者たる特許権者から、相手方に対して、補正により特許請求の範囲が減縮されたことに関する通知を行うことの明示又は黙示の合意がないときに、信義則上の通知義務として、相手方からの問合せの有無にかかわらず、許諾者たる特許権者から積極的にこれを通知すべき義務を負わせることはできない。

【キーワード】
放熱シート事件、特許法34条の3、仮通常実施権、ライセンス契約、特許請求の範囲の補正、減縮、知的財産高等裁判所平成22年3月31日判決平成21年(ネ)第10033号

【事案の概要】
(1)本件特許 
   原告X(パナソニック電工株式会社)は、下記の特許(以下「本件特許」といい、その請求項1及び請求項5の発明を併せて「本件各特許発明」ともいう。)の特許権者である(以下、本件特許に係る特許権を「本件特許権」という。)。
  登録番号 第3290127号
  発明の名称 熱伝導性シリコーンゴム組成物及びこの熱伝導性シリコーンゴム組成物によりなる放熱シート
  出願日 平成10年1月27日
  出願番号 特願平10-14565号
  登録日 平成14年3月22日
   本件各特許発明は、トランジスター、コンピューターのCPU(中央演算処理装置)等の電気部品と放熱器との間に配置され、電子・電気部品から発生する熱を放熱器に伝達する放熱シートを形成するために好適な熱伝導性シリコーンゴム組成物及びこの組成物を成形して成る放熱シートに関する発明である。

(2)実施許諾契約の締結及びY製品の販売に基づく実施料の支払
   Xと被告Y(富士高分子工業株式会社)は、平成12年10月1日、XがYに対し、本件特許に係る出願(以下「本件出願」という。)及び「これに係る特許」の技術的範囲に属する熱伝導性シリコーンゴム組成物からなる放熱シート(以下「許諾製品」という。)を日本国内において製造、使用及び販売することについて、非独占的実施権を許諾し、YからXに対し、許諾製品の正味販売価格の1%(ただし、本件出願に係る特許権が成立した日の属する月の翌月以降については3%)を実施料として支払うこと等を内容とする特許実施許諾契約(以下「本件実施契約」という。)を締結した。
   Yは、本件実施契約に基づき、遅くとも平成12年10月より別紙物件目録記載の放熱シート(以下「Y製品」という。)の製造、販売を開始し、その後、平成14年5月までのY製品の販売について、その売上高の1%相当の実施料をXに支払った

(3)本件出願後の補正
   Xは、平成13年12月4日、特許庁審査官から本件出願について拒絶理由通知を受けたことから、平成14年2月4日付けで手続補正書を提出し、本件出願に係る願書に添付した特許請求の範囲に「熱伝導性無機フィラーが熱伝導性シリコーンゴム組成物全量に対して40vol%~80vol%である」(構成要件B)との要件を加えるなどの補正をし(以下「本件補正」という。)、これにより特許査定となり、同年3月22日に特許権の設定登録がなされた。
   Xは、本件補正当時、本件補正の事実をYに通知しなかった。

(4)本件実施契約の解除
   Yは、本件特許が登録された後の平成14年7月17日、Y製品が本件各特許発明の技術的範囲に属さず、許諾製品に該当しないとして、実施料の支払を拒絶する旨をXに通知し、同年12月13日、本件実施契約を解除する旨の意思表示をした。これにより、本件実施契約は、契約期間の約定により、平成15年10月1日をもって終了した。

(5)Xの請求
   Xは、Y製品が本件各特許発明の技術的範囲に属し、同製品を製造販売するYの行為はXの有する本件特許権を侵害するとして、Yに対して以下の請求をしている。
  (1)特許法100条1項に基づくY製品の製造販売の差止め及び同条2項に基づくY製品の廃棄
  (2)本件実施契約に基づき、本件特許の登録後である平成14年6月1日から本件実施契約が終了した平成15年10月1日までの約定実施料として1800万円及びこれに対する遅延損害金の支払
  (3)民法709条の不法行為に基づく損害賠償として、本件実施契約が終了した日の翌日である平成15年10月2日から平成18年9月末日までのY製品の売上げについて、特許法102条3項により1億0400万円及びこれに対する遅延損害金の支払

(6)Yによる相殺の抗弁の主張
   Yは、Y製品が本件各特許発明の技術的範囲に属することを争うとともに、相殺の抗弁における自動債権として、本件実施契約期間中に支払った約定実施料について、債務不履行に基づく損害賠償請求権を主張した。
   「Xは、信義則上、Yに対して、本件補正を通知する義務を負っていたところ、Yに本件補正を秘したまま、これを行ったのであるから、上記義務に違反したというべきである。そして、Xが、上記補正の事実をYに通知しておけば、その補正の範囲に応じて実施料を減額することとなったはずである。
   したがって、YはXに対し、本件補正以降の既払実施料のうち、補正された範囲に相当する<中略>円につき、債務不履行に基づく損害賠償請求権を有する。」

(7)裁判所の判断
   大阪地方裁判所は、Y製品のうち一部の製品が本件特許発明の技術的範囲に属するとし、その限りで実施料相当額の損害賠償請求を認めた。
   Yが主張した相殺の抗弁(第4次的主張等)については次の通り認めなかった。

【判旨】
「(3) Yの第4次的主張について
  Xは、信義則上、本件補正を通知する義務を負っていたと主張するところ、上記(2)イ・ウのとおり、出願段階では補正が認められて特許されるものかどうかが未だ確定しておらず、Xが本件補正書を提出したというだけでは直ちに本件実施契約上の権利義務に影響を及ぼすものではないと解すべきであるから、そもそも補正の事実を通知する実益に乏しく、信義則上、かかる義務を認めることはできない。
  他方で、補正によって特許請求の範囲が減縮された上で特許査定され、特許権が発生した場合には、本件実施契約上の権利義務にも影響を及ぼすことになるから、減縮の事実を被許諾者に通知する実益があることは否定できない。また、本件実施契約では、まず、Yにおいて自己の販売する製品が「許諾製品」に該当するかどうかを判断すべきであるから、その判断に当たって特許請求の範囲が減縮されたことは重要な情報といえる。したがって、少なくとも、Yから本件出願の経過等について問合せがされた場合には、Xはこれに誠実に応答すべき信義則上の義務があったというべきである。
  しかし、さらに進んで、特許請求の範囲が減縮されたことについて、Yからの問合せの有無にかかわらずXから積極的にこれを通知すべき義務があったか否かについては、これを容易に肯定することはできない。なぜなら、本件実施契約書においてかかる通知義務の存在を窺わせる条項は全く見当たらず、同契約書外においても通知義務を認める旨の合意の存在を推認させる具体的事情は何ら認められないのであるから、本件において通知義務を認めるということは、実施許諾契約一般において、これについての明示又は黙示の合意の有無にかかわらず、許諾者たる特許権者に信義則上の通知義務を負わせることになりかねないからである
  もともと、出願段階で許諾を受けようとする者にとって、契約締結後の補正により特許成立段階で特許請求の範囲が減縮されることは、当然に想定できる事柄であり、減縮があった場合に許諾者から通知して欲しいというのであれば、契約交渉段階でその旨の同意を取り付けて契約書に明記しておくべきといえる(かかる交渉を経ずに許諾者一般にかかる義務を負わせることは、むしろ許諾者に予期しない不利益を被らせるおそれがある。)。また、被許諾者は、許諾者に特許請求の範囲を問い合わせたり(少なくとも許諾者には問合せに応答すべき義務がある。)、特許公報等を参照するなどして、特許請求の範囲がどのようになったか調査することができるのである
  上記のような事情を併せ考慮すれば、許諾者たる特許権者一般に、信義則上、特許請求の範囲が減縮された場合の通知義務を認めることはできないというべきであり、本件においても、Xに、信義則上かかる通知義務があったと認めるに足りる事情はない(なお、上記は特許請求の範囲が減縮された場合を前提としており、拒絶査定不服審判における不成立審決が確定した場合や、特許無効審判における無効審決が確定したような場合における通知義務については別途考慮を要するところである。)。
  したがって、Xには通知義務違反の債務不履行が認められず、これに基づく損害賠償請求権も認められない。
(4) 小括
  以上より、Yが自働債権として主張する債権はいずれも認めることができないから、Yの相殺の抗弁は理由がない。」

【解説】
  特許の出願後、設定登録前に、出願人と、権利行使を受ける可能性がある者との間で、ライセンス契約が締結されることがある。本来、特許出願は必ず登録されるとは限らないから、ライセンス契約は、登録により特許権が発生してから締結すればよいはずである。しかし、製造業など設備投資が必要な業態では、特許権が発生したからといって、急に製造を取りやめることはできない。そのため、権利行使を受ける可能性がある者は、将来の差止リスクを回避し、製造コストを確定するため、特許権が発生する前であっても、実施許諾を受ける地位を確定しておきたいということになる。その手段としては平成20年改正により創設された仮通常実施権(特許法34条の3)を活用することができるし、または端的に、将来において特許権が登録により発生した場合に許諾を受ける旨の契約を締結することができる。
  特許法上、特許権が発生する前のロイヤルティの支払義務に関する規定はないが、実施許諾を受ける地位を確保するための対価として、特許権の発生前にも一定のロイヤルティの支払をすることが多い(いずれ登録後には特許権者から補償金を請求されることがあるのであり、その代わりとしての役割も担っている。)。このロイヤルティは、特許出願が登録に至らなくても返還しない旨が規定されることが多い(不返還条項)。

  ところで、上記のロイヤルティは、ある特定の製品に必要となる特許の実施許諾を受ける地位を確定しておくための対価(いわばオプション)であるところ、出願手続で補正が行われて権利範囲が変わり、当該特定の製品が技術的範囲に属さなくなれば許諾は不要となる。つまり、ライセンサーが補正を行う際に、ライセンシーに対してその旨を伝えれば、ライセンシーは直ちに許諾の要否の判断が可能となり、それ以降は無駄なロイヤルティを支払わずに済む。それゆえ、ライセンサーが、補正を行うことをライセンシーに対し積極的に通知する義務があるか否かが問題となったものである。
  本判決は、ライセンサーが、出願段階で補正を行ったこと(特許請求の範囲が減縮されたこと)を積極的に通知する義務は、信義則上の義務として一般的に認めることはできないとした。ライセンシーにおいて「減縮があった場合に許諾者から通知して欲しいというのであれば、契約交渉段階でその旨の同意を取り付けて、契約書に明記しておくべきといえる」と判示している。

  たしかに、ライセンサーが、ライセンシーに対して補正のことを通知してもライセンシーが契約を解除しない場合もあるから(現行製品は特許発明の技術的範囲に属さなくなったが、将来のために実施許諾を受けておくことを選択する場合など)、ライセンシーの方でも常に補正の際に通知を必要とするわけではない。信義則上の通知義務を認めなかった裁判所の判断は妥当であろう。
  このように出願段階でライセンス契約を締結するに際して、実務上は、ライセンシーが補正の際に通知を欲するのであれば、「ライセンサーが特許請求の範囲を補正する場合には、速やかにライセンシーに通知すること」という趣旨の条項を入れておく必要があることになる

  なお本判決の控訴審(知的財産高等裁判所平成22年3月31日判決平成21年(ネ)第10033号)においては、そもそもY製品は全て本件各特許発明の技術的範囲に属しないと判断して、原判決を変更し、Xの請求を棄却する旨の判決が出されている。

以上
(文責)弁護士 山口 建章