平成24年12月5日判決(知財高裁 平成23年(行ケ)第10445号)
【判旨】
1 結晶性の「〔R-(R*、R*)〕-2-(4-フルオロフェニル)-β、δ-ジヒドロキシ-5-(1-メチルエチル)-3-フェニル-4-〔(フェニルアミノ)カルボニル〕-1H-ピロール-1-ヘプタン酸ヘミカルシウム塩(アトルバスタチン)」の発明において、明細書が開示する三つの方法中、一つのみを検討し、実施可能要件を充足するとした審決の判断は是認することができず、その余の記載により実施可能要件を充足するか否かについて審理を尽くしていないとされた事例
2 引用例における「再結晶」の用語が「再沈殿」又は「再析出」の誤用とはいえず、引用例にはアトルバスタチンを結晶化したことが記載されているから、本件発明は、引用例に記載された発明及び技術常識に基づいて、当業者が容易に発明をすることができたものであるとして、これと異なる審決の判断に誤りがあるとされた事例
【キーワード】
アトルバスタチン、再結晶、特許法第29条第2項、特許法(平8法68号による改正前のもの)第36条第4項1

【事案の概要】
 本件は,原告が,被告の本件発明に係る特許に対する原告の特許無効審判の請求について,特許庁が同請求は成り立たないとした本件審決には,取消事由があると主張して,その取消しを求める事案である。

【争点】
 (1) 実施可能要件に係る判断の誤り(取消事由1)
 (2) 本件発明の容易想到性に係る判断の誤り(取消事由2)

【判旨抜粋】
 2 取消事由1(実施可能要件に係る判断の誤り)について
 (1) 特許制度は,発明を公開する代償として,一定期間発明者に当該発明の実施につき独占的な権利を付与するものであるから,明細書には,当該発明の技術的内容を一般に開示する内容を記載しなければならない。平成8年6月12日法律第68号による改正前の特許法36条4項が実施可能要件を定める趣旨は,明細書の発明の詳細な説明に,当業者がその実施をすることができる程度に発明の構成等が記載されていない場合には,発明が公開されていないことに帰し,発明者に対して特許法の規定する独占的権利を付与する前提を欠くことになるからであると解される。
 そして,物の発明における発明の実施とは,その物の生産,使用等をする行為をいうから(特許法2条3項1号),物の発明について上記の実施可能要件を充足するためには,明細書にその物を製造する方法についての具体的な記載が必要であるが,そのような記載がなくても明細書及び図面の記載並びに出願当時の技術常識に基づき当業者がその物を製造することができるのであれば,上記の実施可能要件を満たすということができる。
 (2) 本件審決は,本件明細書の方法2の実施可能性についてのみ検討した上で,本件明細書の発明の詳細な説明の記載は,実施可能要件を充足するものとする。
 そこで検討するに,方法2は,前記・・・のとおり,補助溶剤を含む水中にアトルバスタチンを懸濁するというごく一般的な結晶化方法であるものの,補助溶剤としてメタノール等を例示し,その含有率が特に好ましくは約5ないし15v/v%であることを特定するのみであり,結晶化に対して一般的に影響を及ぼすpH,スラリー濃度,温度,その他の添加物などの諸因子について具体的な特定を欠くものであるから,これらの諸因子の設定状況によっては,本件明細書において概括的に記載されている方法2に含まれる方法であっても,結晶性形態Ⅰが得られない場合があるものと解される。
 そうだとすると,結晶化に対して特に強く影響を及ぼすpHやスラリー濃度を含め,温度,その他の添加物などの諸因子が一切特定されていない方法2の記載をもってしては,本件明細書及び図面の記載並びに出願当時の技術常識を併せ考慮しても,当業者が過度な負担なしに具体的な条件を決定し,結晶性形態Ⅰを得ることができるものということはできない。
 (4) 以上のとおり,本件明細書における方法2に係る記載は,結晶性形態Ⅰを得るための諸因子の設定について当業者に過度の負担を強いるものというべきであって,実施可能要件を満たすものということはできない。
 もっとも,本件明細書には,本件審決が判断した方法2のほかにも,方法1及び3として,結晶性形態Iの具体的製造方法が開示されているところ,本件審決は,本件明細書の方法2について検討するのみで,本件明細書のその余の記載により実施可能要件を充足するか否かについて審理を尽くしていないものというほかない。
 よって,実施可能要件について更に審理を尽くさせるために,本件審決を取り消すのが相当である。
 3 取消事由2(本件発明の容易想到性に係る判断の誤り)について
(中略)
 イ 本件審決の引用発明の認定の当否
 本件審決における引用発明の認定のうち,本件審決が,引用例の実施例10における「再結晶」の用語は「再沈殿」又は「再析出」の誤用であり,引用例に記載された発明において,アトルバスタチンの結晶が得られていないと認定した点を除くその余の認定については,当事者間に争いがない。
 (ア) 引用例・・・の実施例10の記載において,ラクトンを用いて種々の作業工程を経た後に得られた反応混合物及び塩化カルシウム溶液について,さらに複数の作業工程を加え,50℃rxn溶液にヘキサンを仕込むことにより,「再結晶」を行うことができるとされているが,実施例10の各作業工程及び各工程により得られた産物によれば,実施例10における「再結晶」とは,化学用語に関する辞典(甲48)に記載されている通常の語義である「不純物を含んだ結晶性物質を適当な溶媒に溶かし,他の溶媒の添加や共通イオン効果などを利用して,不純物が析出しないように再び結晶させて,結晶の純度を上げたり,結晶形をそろえる操作」を意味するものと解され,特段それを疑うべき事情は見当たらない。
 すなわち,引用例の他の実施例でも,具体的な実験手順が記載されており,固体物質を意味する技術用語として,「結晶」「結晶性生成物」「粗製物質」「残留物」「反応混合物」「粗製生成物」「泡状物」「純粋物質」「白色固形物」等の用語が用いられている。このうち,実施例1において,「再結晶」という用語が用いられているが,同実施例では,初期反応で得られた物質を「反応混合物」,粗製の段階の生成物を「淡茶色の結晶性生成物」と記載し,それを「再結晶」して生成物1Bを,さらに「再結晶」して生成物1Cを得た上で,生成物1Bと1Cとを合一した後,「再結晶」して生成物1Fを得るものとされているが,生成物1Fの融点が狭い温度範囲(229~230℃)であると記載されていることからすると,生成物1Fは,「結晶」であるということができる。
 したがって,実施例1においても,「再結晶」という用語は技術的に正確に用いられているものというべきである。その他の実施例についても同様である。
(中略)
 (ウ) 以上によれば,引用例における「再結晶」の用語が,「再沈殿」又は「再析出」の誤用であると認めることはできず,引用例に記載された発明において得られたアトルバスタチンが結晶形態であると認定しなかった本件審決の認定は誤りである。
 ウ 一致点及び相違点について
 前記イのとおり,引用例に記載された発明は結晶形態のアトルバスタチンであるというべきであるから,本件発明と引用例に記載された発明の一致点及び相違点は,以下のとおりとなる。
 (ア) 一致点:本件発明及び引用例に記載された発明が結晶形態のアトルバスタチンである点
 (イ) 相違点:本件発明は,それぞれ,結晶形態を特定するためのX-線粉末回折パターン(本件発明1)や13C核磁気共鳴スペクトル(本件発明2)で特定される結晶性形態Ⅰのアトルバスタチン水和物であるのに対し,引用例に記載された発明のアトルバスタチンは,結晶形態を有するものの,そのような特定がない点(以下「本件相違点」という。)
 (2) 相違点に係る判断の誤りについて
 ア 結晶を得ることの動機付けについて
(中略)
 (オ) 以上によると,本件優先日当時,一般に,医薬化合物については,安定性,純度,扱いやすさ等の観点において結晶性の物質が優れていることから,非結晶性の物質を結晶化することについては強い動機付けがあり,結晶化条件を検討したり,結晶多形を調べることは,当業者がごく普通に行うことであるものと認められる。
 そして,前記(1)のとおり,引用例には,アトルバスタチンを結晶化したことが記載されているから,引用例に開示されたアトルバスタチンの結晶について,当業者が結晶化条件を検討したり,得られた結晶について分析することには,十分な動機付けを認めることができる。
 ウ 本件発明の効果について
(中略)
 エ 小括
 以上によると,本件発明は,アトルバスタチンの特定の結晶性形態(結晶性形態Ⅰ)に係る発明であるところ,本件相違点に係る構成は,引用例により開示されたアトルバスタチンの結晶について,当業者が通常なし得る範囲の試行錯誤によって得ることができるものというべきであるし,当該結晶性形態の作用効果についても,格別顕著なものとまでいうことはできない。
 したがって,本件発明は,引用例に記載された発明及び技術常識に基づいて,当業者が容易に発明をすることができたものというべきである。

【解説】
 本件は、アトルバスタチンの結晶形態に関する特許について、特許無効審判の請求がなされ、当該請求が成り立たないと特許庁が判断した審決についての取消訴訟である。結論としては、審決が取り消された事例である。
 本件においては、争点は大きく二つ、つまり実施可能性があるか否かと、容易想到であったか否かである。
 実施可能性要件については、特許庁においては、本件特許明細書中の方法2についてのみ判断し、実施可能であるとしていた。しかしながら、裁判所は、スラリー濃度等の結晶化に重要なパラメータについて方法2に記載されておらず、当該パラメータを定めるのに当業者に過度の負担を強いるものというべきとして、実施可能性要件がなく、その他の方法(方法1及び方法3)について特許庁において審理を尽くすべきとした。
 容易想到性については、医薬化合物については、安定性、純度、扱いやすさ等の観点において結晶性の物質が優れていることから、非結晶性の物質を結晶化することについては強い動機付けがあり、結晶化条件を検討したり、結晶多形を調べることは,当業者がごく普通に行うことであるものと認められると判断し、その上で、「引用例には,アトルバスタチンを結晶化したことが記載されている」と認定して、容易想到である旨が判断された。
 一般に、医薬品分野においては、すでにある有効成分について、結晶形やDDに関連して、特許化し、延命措置を図ることが行われている。本件においては、「結晶化条件を検討したり,結晶多形を調べることは,当業者がごく普通に行うこと」である旨認定されているが、医薬品分野においては、結晶多形を調べることが一般である事から、容易想到性が認められやすくなる可能性があるとも考えられる。しかしながら、本判決では、引用例に「アトルバスタチン」を結晶化したことが記載されている、つまり問題となる物質について「結晶形態」は違うものの、「結晶化」については、記載されているという特殊な事例であり、医薬品一般に当該判断が及ぼされるとは考えにくいと思われる。しかしながら、実務的には、裁判例の動きを注意深く見守る必要がある。
 なお、本裁判例は、上告受理申立を行ったが、平成25年8月21日に受理しない旨の決定がなされており、判決は確定している。
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特許法第36条第4項 前項第三号の発明の詳細な説明は通商産業省令で定めるところにより、その発明の属する技術の分野における通常の知識を有する者がその実施をすることができる程度に明確かつ十分に、記載しなければならない。

(文責)弁護士 宅間仁志