【平成24年10月16日(大阪地裁 平成21年(ワ)第4377号】
【事案】
本件は、被告の元従業員である原告が、被告に対し、被告在職中に、単独又は共同でした職務発明(15件)、職務考案(2件)及び職務創作意匠(3件)に係る特許等を受ける権利又はその共有持分を被告に承継させたとして、平成16年法律第79号による改正前の特許法(以下「法」という。)35条3項、実用新案法11条3項、意匠法15条3項に基づき、上記承継の相当の対価の未払い分である金12億2052万8199円のうち金1億円及びこれに対する遅延損害金の支払を求めた事案である。
裁判所は、原告による相当対価請求権を放棄する旨の意思表示があったとまでは認められないと判断し、原告の請求の一部を認容した。
【キーワード】
特許法第35条、職務発明、対価請求権
【争点】
本件の争点は、以下のとおりである。
(1)相当の対価額(争点1)
ア 被告の本件発明6-1ないし6-3及び本件考案6の実施の有無(争点1-1)
イ 被告による本件実施品1ないし6の売上高(争点1-2)
ウ 超過売上高(争点1-3)
エ 仮想実施料率(争点1-4)
オ 使用者の貢献度(争点1-5)
カ 共同発明者間における原告の貢献度(争点1-6)
キ 相当の対価額(争点1-7)
(2)原告による放棄の意思表示の有無(争点2)
(3)消滅時効の成否(争点3)
(4)控除すべき金額(争点4)
本稿では、「(2)原告による放棄の意思表示の有無(争点2)」について取り上げる。
【判決一部抜粋】(下線は筆者による。)
第1 請求
・・(省略)・・
第2 事案の概要
・・(省略)・・
1 判断の基礎となる事実
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(3)被告における従業員の発明考案等に関する定め
ア 被告における従業員の発明考案等の取扱いについては、昭和60年3月23日、発明考案取扱規程(乙1の1。以下「昭和60年規定」という。)が実施された。
イ その後、平成3年4月1日に、新たな発明考案取扱規定(乙1の2。以下「平成3年規定」という。)が実施された(その内容は、別紙発明考案取扱規程のとおりである。)。
平成3年規定は、平成10年12月1日付け、平成11年2月27日付けで一部改訂されたが(乙1の3・4)、特許等を受ける権利の承継及び補償金に関する定めは、同趣旨のままである。
・・(省略)・・
(7)原告の退職願
原告は、平成20年7月に被告を退職したが、そのときの退職願には、「退職に際しては就業規則および発明考案取扱規定に定める下記の記載事項を遵守いたします。」として、「4 在職中の発明考案等に係わる補償金の受給権は全て放棄いたします。」との記載がある(乙2)。
・・(省略)・・
第2 争点に関する当事者の主張
・・(省略)・・
8 争点2(原告による放棄の意思表示の有無)について
【被告の主張】
(1)原告による放棄の意思表示について
ア 原告退職時における被告の発明考案取扱規定(乙1の5。平成20年1月1日実施。以下「平成20年規定」という。)の第12条には、「第8条~第10条(注:出願補償・登録補償・実績補償)の規定は、補償金の支給時に会社に在籍している従業員等に対してのみ適用される」と規定されており、退職時以降は職務発明対価請求権を認めないとされている。
これに基づき、原告は、その退職願(乙2)において、「在職中の発明考案等に係わる補償金の受給権は全て放棄いたします」との約束しているのであるから、職務発明の対価請求権をすべて放棄したものである。
イ 原告は、退職願(乙2)の上記文言は、平成20年規定(乙1の5)第12条の規定を再確認(遵守することを誓約)したものにすぎないと主張する。
しかしながら、上記文言は、単に平成20年規定の12条に定める受給権の不存在を確認するにとどまらず、積極的に、仮に何らかの権利が残存するとしてもこれを放棄する旨を約したものである。
・・(省略)・・
【原告の主張】
(1)退職願の放棄条項の解釈について
ア 原告の退職願(乙2)における放棄条項は、「退職に際しては就業規則および発明考案取扱規定に定める下記の記載事項を遵守いたします」との記載の下に設けられていることから、平成20年規定(乙1の5)第12条の規定を再確認(遵守することを誓約)したものにすぎない。
すなわち、平成20年規定の第12条は、被告においては、職務発明の出願補償金、登録補償金、実績補償金は、在職中の従業員についてしか適用されず、発明考案をなした従業員が退職した場合には、発明考案の対価として出願補償金、登録補償金、実績補償金を請求する権利がないことを定めたものであるが、従業員の在職中の発明考案等に係わる補償金の受給権・発明考案等の対価請求権の一切を放棄する旨を定めたものではない(実際に原告はそのように認識していた。)。
イ また、従業員等が対価請求権を有効に放棄するなど、特段の事情のない限り、従業員等は、使用者等の算出した額に拘束されることなく、特許法に基づく「相当な対価」を使用者等に請求することができるものと解すべきである(東京高裁平成13年5月22日判決・判例時報1753号23頁、オリンパス事件控訴審判決参照)。
しかるところ、本件では、上記退職願の文言に加え、平成9年、平成13年、平成15年の補償金申請において、原告が被告からの補償金額の通知を受けて不服申立て(甲115の1~6)、滋賀労働局へのあっせん申請(甲116)をしていたこと、退職願(乙2)は、退職金の支給を受けるために署名押印しなければならない書類であったことからすれば、原告において、対価請求権を有効に放棄するなどの特段の事情がないことは明らかである。
ウ したがって、上記文言によって、原告が在職中の職務発明の対価請求権を放棄したということはできない。
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第4 当裁判所の判断
・・(省略)・・
9 原告による放棄の意思表示の有無について(争点2)
(1)退職届(乙2)の表記等について
ア 原告の平成20年6月18日付け退職願(乙2)には、「退職に際しては就業規則および発明考案取扱規定に定める下記の記載事項を厳守いたします」として、その下に、4点の厳守事項が記載されており、その中に「4 在職中の発明考案等に係わる補償金の受給権は全て放棄いたします」との記載がある。なお、4点の厳守事項は、囲み枠の中にポイントを落とした文字で表記されている。
イ その当時に実施されていた被告の発明考案取扱規程(平成20年1月1日実施のもの。乙1の5。以下「平成20年規定」という。)では、補償金の支給対象について、第12条で「第8条~第10条の規定は、補償金の支給時に会社に在籍している従業員等に対してのみ適用される。」と規定されていた。なお、同規定の第8条ないし第10条は、出願補償金、登録補償金及び実績補償金の支給要件及び支給額を規定したものである(ただし、実績補償金の詳細は、別途細則で定められている。)。
同条項は、退職者の増加に伴って、補償金等の支払を会社に在籍している従業員に対してのみ適用するため、平成11年2月27日の発明考案規程(平成3年規定)の一部改訂において設けられたものである(乙1の4、32)。
(2)放棄文言の解釈
以上を踏まえて検討するに、上記退職届の文言からは、厳守事項は、飽くまでも就業規則及び発明考案取扱規程に定められた事項であることが前提であることから、厳守事項のうち「4 在職中の発明考案等に係わる補償金の受給権は全て放棄いたします」についても、就業規則及び発明考案取扱規程に定められた事項の範囲内で解釈される必要がある(この点、被告社員も、退職に当たり、就業規則及び発明考案取扱規程12条の内容を改めて認識してもらう趣旨であることを認めている。乙32・2頁)。
そこで、これに関する発明考案取扱規程第12条をみるに、同条は、同規定第8条ないし第10条の出願補償金、登録補償金及び実績補償金の支給要件及び支給額に関する社内規定が在籍している従業員にしか適用されないことを規定したものであり、当該社内規定による支給額を超える職務発明等の対価が生じていると思料する場合の当該対価請求権の権利行使については、何ら規定していない。
そうすると、厳守事項4については、退職により、社内規定による補償金(出願補償金、登録補償金及び実績補償金)の受給については、上記規定が適用されないことを確認したものにとどまり、社内規定によらない職務発明の対価請求権の行使については、何ら規定するものではないと解するのが相当である。
(3)原告が補償金の支給に不満をもっていたこと
なお、原告は、平成15年12月3日、本件実施品1ほかの製品について、実績補償金の対象ではないとされたことについて、発明考案取扱規程(乙1の4)15条に基づく不服申立てを行い(甲115の3・5)、その後、平成16年3月5日、実績補償金の支給に対する不満等を含めて、滋賀労働局に対し、あっせん申請書を提出するなどしており(甲116)、在職中から、補償金の支給に不満を持っていたことは明らかである。
そして、原告は、退職後、平成20年11月18日到達の内容証明郵便で被告に催告書兼提訴予告通知書を送付していることからすれば、退職時に、職務発明の対価請求権を放棄する意思までは有していなかったと推認できる。
(4)小括
以上のとおり、本件において、原告による職務発明の対価請求権を放棄する旨の意思表示があったとまでは認められない。
・・(以下、省略)・・
【検討】
本件は、被告である会社が、被告の元従業員である原告に対し、退職願において「在職中の発明考案等に係わる補償金の受給権は全て放棄いたします」と約束したこと等を理由に、職務発明の対価請求権をすべて放棄したものである、と主張したのに対し、裁判所は、原告による職務発明の対価請求権を放棄する旨の意思表示があったとまでは認められない、と判断した点に特徴がある。
通常、会社の従業員が業務上行った発明については、会社の就業規則や職務発明規程において、特許を受ける権利は会社に帰属するものとし、他方、会社から従業員に対して相当の金銭その他の経済上の利益(以下「相当の利益」という。)を提供することが定められているのが一般的である。もっとも、退職者に対する相当の利益の取扱いについては各社様々である。
本件では、会社の規程において、職務発明の出願補償金、登録補償金、実績補償金は、在職中の従業員についてしか適用されず、発明考案をなした従業員が退職した場合には、発明考案の対価として出願補償金、登録補償金、実績補償金を請求する権利がない旨が定められており、その上で、原告の退職願には、厳守事項として、「4 在職中の発明考案等に係わる補償金の受給権は全て放棄いたします」との記載があった。しかし、裁判所は、「当該社内規定による支給額を超える職務発明等の対価が生じていると思料する場合の当該対価請求権の権利行使については、何ら規定していない。」、「社内規定によらない職務発明の対価請求権の行使については、何ら規定するものではないと解するのが相当である。」と判断した。また、裁判所は、原告の退職前後の行動等を基に、「退職時に、職務発明の対価請求権を放棄する意思までは有していなかったと推認できる。」と判断した。
このような裁判所の判断によれば、退職者が職務発明の対価請求権を放棄する旨の意思表示をしたか否かについては、職務発明規程や退職者が提出した書類に記載された文言のみから直ちに判断できるわけではなく、退職者の行動等のその他の事情も考慮して判断しなければならない事項であると理解される。
本件は、職務発明制度の見直しに係る平成27年特許法改正前の事案であるが、退職者に対する相当の利益の取扱いを定める会社の立場、及び会社に対して相当の利益を請求する従業員の立場の双方から参考になる判決である。
以上
弁護士・弁理士 溝田尚