【知財高裁平成28年10月12日判決・平成27年(行ケ)第10176号 審決取消請求事件】

【キーワード】実施可能要件、特許法36条4項1号

第1 はじめに
 本件は、特許無効審判の請求不成立審決に対する審決取消訴訟である。取消理由は複数に亘るが、そのうち、実施可能要件違反に関する取消理由にもとづき、審決が取り消された。判決は、証拠から、本件特許の出願当時、InMO3(ZnO)m(m=1以上50未満の整数)で表される化合物のうち、mが5以上の化合物の薄膜は製造することが困難であったことが知られていたとして、本件明細書にmが5以上の化合物の薄膜の製造方法が記載されていない本件特許は実施可能要件を満たさないと判断した。このように、本件は、出願当時に一般式で表される化合物のうち一部について薄膜を製造することが困難であったことを認定して、その製造が困難であることが知られていた化合物薄膜の製造方法、製造例が明細書に記載されていない以上、実施可能要件を満たさないとしたところに特徴がある。

第2 事案
 1 特許請求の範囲

 【請求項1】
 ホモロガス化合物InMO3(ZnO)m(M=In,Fe,Ga,又はAl,m=1以上50未満の整数)(以下「本件化合物」という。)薄膜を活性層として用いることを特徴とする透明薄膜電界効果型トランジスタ。(本件発明1)
 【請求項2】
 表面が原子レベルで平坦である単結晶又はアモルファスホモロガス化合物薄膜を用いることを特徴とする請求項1記載の透明薄膜電界効果型トランジスタ。(本件発明2)
 【請求項3】
 ホモロガス化合物が耐熱性,透明酸化物単結晶基板上に形成された単結晶薄膜で あることを特徴とする請求項1記載の透明薄膜電界効果型トランジスタ。(本件発明3)
 【請求項4】
 ホモロガス化合物がガラス基板上に形成されたアモルファス薄膜であることを特 徴とする請求項1記載の透明薄膜電界効果型トランジスタ。(本件発明4)

 2 審決の理由の要旨
「 (6) 無効理由5について
 本件明細書の発明の詳細な説明には,「アモルファス薄膜」である本件化合物薄膜を作製する具体的な方法は記載されていない。
 甲3には,アモルファスInGaO3(ZnO)m膜が記載されている。そして,前記アモルファスInGaO3(ZnO)m膜の,キャリア密度は,1019~1020cm-3である。甲4には,非晶質のInGaZnO4膜が記載されている。また,甲4【0043】【表1】の記載から,前記アモルファスInGaO3(ZnO)m膜は,キャリア密度が4.8×1019~8.5×1019cm-3程度である。そうすると,本件出願日前において,「アモルファス」である「InMO3(ZnO)m(M=Ga,m=1以上4以下)薄膜」を作製する方法が広く知られていたことが理解できるから,本件出願日前に,「アモルファス」である本件化合物薄膜を作製することは,当業者の技術常識の範囲内のことと認められる。
 引用文献2のITOについての実験結果から,一般に,酸化物の透明導電膜は,膜中の酸素量を増加させ,膜中のキャリア濃度を1018cm-3以下に制御して導電性を低下させ,透明薄膜電界効果型トランジスタの半導体活性層として使用できるということが技術常識として知られていたことが理解できる。
 そうすると,本件出願日前の技術常識を参酌して,例えば,「アモルファス」である「本件化合物薄膜」を作製する際に,スパッタ時の酸素ガスの割合を大きくする等の成膜条件の変更を試みることによって,従来透明電極として用いられていた膜の膜中の酸素量を増加させ,膜中のキャリア濃度を1018cm-3以下に制御して導電性を低下させ,半導体活性層として使用することができるようなアモルファス薄膜を作製することは,当業者が期待し得る程度を超える試行錯誤や複雑高度な実験等を行うことなくなし得たことと認められる。
 すなわち,本件明細書の発明の詳細な説明は,「本件化合物薄膜」が,「アモルファス薄膜」である「透明薄膜電界効果型トランジスタ」を生産することができる程度に,明確かつ十分な記載を有するものと認められる。」

第3 主な争点
 本件明細書は、本件特許の請求項1、2及び4にかかる化合物を当業者が製造できる程度に明確かつ充分な記載を有しているか否か。

第4 判旨
「第5 当裁判所の判断
 1 本件発明の概要
(略)
2 取消事由3(無効理由5の判断の誤り)について
(1)事案に鑑み,以下の無効理由5について,審決の判断誤りを主張する取消事由3から判断する。
 無効理由5は,本件明細書の発明の詳細な説明に,活性層として用いることができる本件化合物のアモルファス薄膜の作製法についての実施例の記載がなく,具体的に説明されていないから,実施可能要件を満たさず,本件発明1,2及び4についての特許は,無効とすべきである,というものである。
(2) 本件明細書の記載
 ア 本件発明1,2及び4には,アモルファス薄膜である本件化合物を活性層として用いることを特徴とする透明薄膜電界効果型トランジスタが含まれるが,ZnOの組成であるmは「m=1以上50未満の整数」とされているから,本件明細書の発明の詳細な説明の記載が,本件発明1,2及び4の実施可能要件を満たすためには,上記mの全範囲にわたってアモルファスの本件化合物薄膜が形成できるように記載されている必要がある。
 イ 発明の詳細な説明の記載を参酌すると,単結晶の本件化合物薄膜を形成する方法としては,「YSZ(イットリア安定化ジルコニア)基板上に育成したZnO単結晶極薄膜上に,アモルファスのホモロガス薄膜を堆積し,得られた多層膜を高温で加熱拡散処理する「反応性固相エピタキシャル法」により,ホモロガス単結晶薄膜を育成する」(【0007】),「上記のホモロガス単結晶薄膜の製造方法と同様に,ZnO薄膜上にエピタキシャル成長した複合酸化物薄膜を加熱拡散する手段を用いる」(【0008】)と記載されている。また,ZnO薄膜上に形成する本件化合物薄膜全般については,「MBE法,パルスレーザー蒸着法(PLD法)等により・・・成長させる。」(【0019】),「得られた薄膜は,単結晶膜である必要はなく,多結晶膜でも,アモルファス膜でも良い。」(【0020】),「基板温度を室温まで冷却し,該ZnOエピタキシャル薄膜上にPLD法により,厚み150nmの多結晶InGaO3(ZnO)5薄膜を堆積させた。」(【0028】)とあるように,多結晶やアモルファスの薄膜を,室温で,MBE法,パルスレーザー蒸着法(PLD法)等を用いて形成することが記載されている。さらに,アモルファスの本件化合物薄膜を形成する方法については,「ZnOを含むホモロガス化合物アモルファス薄膜を用いる場合には,基板は耐熱性を有する必要がなく,安価なガラス基板を用いることができる。」(【0016】),「アモルファス薄膜の場合は,エピタキシャル成長させる必要はないので,ZnOエピタキシャル成長及び高温アニールプロセスを除くことができる。」(【0027】)と記載されている。
これらの記載から,当業者であれば,アモルファスの本件化合物薄膜を形成するためには,上記単結晶の本件化合物薄膜の形成方法から,ZnO単結晶極薄膜の成長と高温アニールの工程を省略すればよいこと,すなわち,ガラス基板等を用いて,室温で,MBE法,パルスレーザー蒸着法(PLD法)等を用いて形成すればよいことを理解する。
 ウ しかし,本件出願日当時においては,以下のとおり,mが5以上の組成では,アモルファス相を得ることが極めて困難と解されていた。
 (ア) 本件明細書には,「ZnOは・・・アモルファス状態を作り難い」(【0004】),「基板温度を室温まで冷却し,該ZnOエピタキシャル薄膜上にPLD法により・・・多結晶InGaO3(ZnO)5薄膜を堆積させた。」(【0028】)との記載がある。
 (イ) 本件明細書の【0006】に「パルスレーザー薄膜堆積法を用い,室温での成膜により,アモルファス状態で,n-型電気伝導を示す,ZnOを主たる構成成分として含有するInGaO3(ZnO)m(mは自然数)等のホモロガス化合物透明薄膜を育成した」ことが記載された文献として挙げられている甲3には,以下の記載がある。
 「ZnO系のアモルファス透明導電体を作り出すことを目的として,さまざまなアモルファス膜InGaO3(ZnO)m(m≦4)をパルスレーザー蒸着法を用いて作製した。」(訳文1頁11~13行)
 「InGaO3(ZnO)m膜では,mが5未満のときにアモルファス相が得られた。」(訳文3頁下から5~4行)
 「基板の加熱は,意図的には行わなかった。」(訳文5頁1行)
 「図3にm=1~5である膜のXRDパターンを示す。各パターンでは,SiO2ガラス基板による22°付近のハローピークが見られる。m=5のパターンには鋭いピークが見られ,これはInGaO3(ZnO)5結晶の(0021)面の回折に相当する。また,鋭いピークは,m値が5より大きい試料全てに見られ,ZnOに近い組成ではアモルファス相は得られないことを示している。」(訳文5頁下から5~1行)
 (ウ) 本件明細書の【0006】に挙げられた甲4には,以下の記載がある。
 【0040】1.ターゲットの作成 In2O3,Ga2O3,ZnOの各粉末を,含有金属の比率がそれぞれ1になるように秤量した。・・・XRDによりInGaZnO4で表される酸化物が生成していることを確認した。
 【0041】ホモロガスInGaO3(ZnO)mの場合は,In2O3,Ga2O3,ZnOの各粉末を,含有金属の比率が1:1:m(mは2以上の整数)となるように秤量した。・・・
 【0042】2.成膜 
以下に実施例としてレーザーアブレーション法を用いる成膜法を示す。
 実施例1
 上で作成した焼結体のうち,In:Ga:Zn=1:1:1の焼結体・・・ホルダーに固定した。・・・石英ガラス基板を設置し・・・約300nmの薄膜を得た。・・・膜が均一な非晶質であることはXRDより確認した・・・
 【0044】実施例2
 実施例1と同条件で・・・アクリル基板を用いることにより,IGZOの非晶質薄膜を得た。
 【0048】実施例4
 上で作成した焼結体のうち,In:Ga:Zn=1:1:4の焼結体・・・ホルダーに固定した。・・・石英ガラス基板を設置し・・・約300nmの薄膜を得た。・・・膜が均一な非晶質であることはXRDより確認した。・・・
 (エ) 甲6には,「InGaO3(ZnO)mの焼結体(m=1~4)に酸素雰囲気中でKrFエキシマーレーザー光を照射し・・・石英ガラス基板上に薄膜を室温形成した。・・・いずれのXRDパターン(薄膜法)にも結晶性の回折線は認められない」(577頁,28a-ZB-1,10~13行)との記載がある。
 (オ) 甲7には,「InGaO3(ZnO)m結晶(m=1~4)の単相焼結体ターゲットにKrFエキシマーレーザー光を・・・照射し,石英ガラス基板上に成膜した。結晶粒が存在しないことをXRDとTEMで確認し・・・た。」(946頁,29p-ZL-10,10~12行)との記載がある。
 (カ) 以上によれば,本件出願日当時,パルスレーザー蒸着法により,アモルファスのInGaO3(ZnO)m(m=1~4)を形成することが可能であることは確認できるものの(甲3,4,6,7),mが5以上の場合は開示されておらず,mが5以上のZnOに近い組成ではアモルファス相は得られないとの指摘もされていた(甲3)から,当業者は,mが5以上の薄膜の作成は極めて困難と認識していたものと認められる。
 エ そして,本件明細書には,かかる当業者の認識にもかかわらず,mが5以上50未満であるアモルファスの本件化合物薄膜を作成する方法についての記載はない。
 (3) したがって,本件明細書の発明の詳細な説明の記載は,mが5以上50未満の整数である場合を含む本件発明1,2及び4について,当業者が,アモルファスの本件化合物薄膜を形成することができる程度に明確かつ十分に記載されたものであるということはできないから,実施可能要件を欠くものと認められる。
 そうすると,その余の点について検討するまでもなく,取消事由3には,理由がある。」

第5 検討
 本件は、特許明細書の発明の詳細な説明が、InMO3(ZnO)m(M=In,Fe,Ga,又はAl,m=1以上50未満の整数)で表される化合物の薄膜を当業者が製造できるように記載されていないとして実施可能要件を欠くものと判断された。
 一般式で表される化合物に係る発明についての特許が記載要件を欠くとされるケースで多いのは、当該一般式の範囲が広すぎる一方、実施例で効果示されている具体例が少ないというケースである。このようなケースでは、実施例を特許請求の範囲まで拡張ないし一般化できない(サポート要件違反)、当業者が当該化合物を使用することができない(実施可能要件違反)といったような理由で記載要件違反とされうる。
 本件は、上記のようなケースとは異なり、一般式で表される化合物からなる薄膜を製造すること自体が明細書の記載から可能かどうかが争われている。様々な製造技術、合成技術が発展している現代において、当業者が、ある化合物もしくはその化合物からなる薄膜等の構造物を製造することができないというケースはそれ程多くはないと考えられる。
 ところが、本件では、本件明細書中に引用されている文献中の記載等から、InMO3(ZnO)mで表される化合物のうち、mが4以下のものは薄膜を作ることができるが、mが5以上のものは、本件特許出願当時、薄膜を作ることが極めて困難であったことが知られていたと認定された。そして、mが5以上のものが薄膜を作ることが極めて困難であると知られていたにもかかわらず、本件明細書にはその製法が記載されていないから、実施可能要件を満たさないと判断されている。
 製造が極めて困難であることが知られていた物について特許出願しようとする場合、特許出願明細書において、その物の製造方法を記載すべきことは当然であるといえる。
 一方で、判決で引用された文献は、mが1~4の場合の製造例を記載したものが数点と、mが5以上のZnOに近い組成ではアモルファス相は得られないとの指摘もされていた甲3である。これらの文献の記載から、「当業者は,mが5以上の薄膜の作成は極めて困難と認識していた」とまで認定できるかどうかについては検討が必要であるように思われる。

以上

(文責)弁護士 篠田淳郎