【平成28年11月16日(知財高裁 平成27年(行ケ)10206号)】

【キーワード】

 特許法第29条第1項第2号,公然実施発明,特殊性,「既存の製品」,動機付け,相応の動機,パラメータ,発明特定要素間の相関関係

【事案の概要】

 本件は,発明の名称を「エアバッグ用基布」とする特許(特許第5100895号。以下,この特許を「本件特許」という。)の特許権者である被告が,原告から特許無効審判を請求され,これに対し,被告が訂正請求(以下「本件訂正」という。)をし,特許庁が,「請求のとおり訂正を認める。本件審判の請求は,成り立たない。」との審決(以下「本件審決」という。)をし,これに対し,原告が本件審決の取消しを求める本件訴訟を提起した事案である。

【争点】

 当事者が主張する取消事由は,本件訂正の訂正要件に係る判断の誤り,サポート要件に係る判断の誤り,引用発明1に基づく容易想到性の判断の誤り等があるが,本稿においては,引用発明1に基づく容易想到性の判断の誤りの一部についてのみ紹介する。

【請求項1】(本件訂正後)

 沸水収縮率が7.3~13%であるナイロン66繊維を原糸として用いた,総繊度が200~550dtexおよび単糸繊度が2.0~4.0dtexのマルチフィラメントから構成され,樹脂被膜を有さず,50N/cmおよび300N/cm荷重時の伸度が経緯の平均値でそれぞれ5~11.7%および15~28%であり,構成糸の引抜抵抗が経緯の平均値で50~200N/cm/cmであり,下記の特定縫製で縫合した縫合境界部における100N/cm負荷後の動的通気度が差圧50kPaにおいて1300mm/s以下であり,下式で表されるカバーファクター(CF)が2100~2500である平織りからなることを特徴とするエアバッグ用基布。

 特定縫製:織物を2枚,1350dtexの撚り糸を用いて50回/10cmで本縫いする。

 CF=√(0.9×d)×(2×W)

 (但し,dは構成糸の経緯平均の総繊度(dtex)であり,Wは経緯平均の織密度(本/2.54cm)である。)

【本件審決】(一部抜粋。下線部等の強調は筆者による。以下同じ。)

  ア 公然実施品1:BGCA3FZ9ADCなる番号が付されたエアバッグモジュール(甲1の1・2。平成22年4月22日公然実施)

(中略)

  ア 引用発明1

  ナイロン66繊維を原糸として用いた,総繊度が236dtexおよび単糸繊度が3.3dtexのマルチフィラメントから構成され,樹脂被膜を有さず,50N/cmおよび300N/cm荷重時の伸度が経緯の平均値でそれぞれ9.3%および24.3%であり,構成糸の引抜抵抗が経緯の平均値で53N/cm/cmであり,下記の特定縫製で縫合した縫合境界部における100N/cm負荷後の動的通気度が差圧50kPaにおいて1498mm/sであり,下式で表されるカバーファクター(CF)が2131である平織りからなるエアバッグ用基布。

  特定縫製:織物を2枚,1350dtexの撚り糸を用いて50回/10cmで本縫いする。

  CF=√(0.9×d)×(2×W)

  (但し,dは構成糸の経緯平均の総繊度(dtex)であり,Wは経緯平均の織

  密度(本/2.54cm)である。),かつ,ASTM D4032剛軟度が4.3Nであり,構成糸の4.7cN/dtex荷重時の伸度が経緯の平均値で19.0%であり,構成糸の強度が経緯の平均値で6.4cN/dtexであり,上記基布からなるエアバッグ。

5.相違点の判断

(中略)

 請求人は,甲38~41,48~51に動的通気度を低下させること(例えば,甲48では200mm/s以下とする)が記載され,かかる課題が周知である旨,主張する(要領書(2)20ページ(V),第1回口頭審理調書別紙1,要領書(3)表3(改))。

 しかし,課題が周知であるとしても,甲1発明は「既存の製品」であって機能に応じた最適化がなされているから,変更のためには,相応の動機が必要と解される。

 甲1発明において,動的通気度に影響を与える,沸水収縮率,構成糸の単糸繊度,構成糸の引抜抵抗,カバーファクターを,本件発明1が特定する範囲内で変更し,動的通気度を「1300mm/s以下」という具体的範囲にするまでの動機があるとは言えず,これが可能であることを示す証拠もない。

 請求人は,また,ある特定の要素の数値を変更した場合に,他の要素の数値が変更することを考慮せずに判断すべき旨,主張する(弁駁書(2)23ページの五)。

 しかし,糸又は布の特性である各要素は,上記第7.(第36条第6項第1号についての判断)でも述べたとおり,相互に関係する(請求人要領書(4)別紙,被請求人要領書(4)別紙)ものであるから,請求人の主張は技術常識に反し,採用できない。

 よって,相違点1の2を容易想到とすることはできない。

 以上,本件発明1を,甲1発明に基づいて容易に発明をすることができたとすることはできない。

【本件訴訟】

第3 当事者の主張

 3 取消事由3(引用発明1に基づく容易想到性の判断の誤り)について

  〔原告の主張〕

  (3)  既存の製品論の誤りについて

  本件審決は,既存の製品からの容易想到性が認められるためには,相応の動機,すなわち,より高度の動機付けを要する旨判断した。

  しかし,特許法は,公知・公用技術につき,製品化されているか否かで差別する規定を設けておらず,また,当該公知・公用技術からの容易想到性の判断に当たり,製品化の点を判断材料の1つとするという制度的思想を含むものでもない。さらに,既存の製品については,リバースエンジニアリングによって,一般の技術文献よりも多くの情報を得られるので,より強い変更の動機付けがある。

  〔被告の主張〕

  (3) 既存の製品論の誤りについて

  引用発明1に係る公然実施品1は,仮に商品として販売されていれば,その基布は,一定の観点により設計・製造され,用途に適したバランスを備えたものとして認識されていたはずである。しかも,上記公然実施品は,エアバッグモジュールにすぎず,当業者において,技術的思想を読み取ることはできない。以上によれば,引用発明1につき,直ちにこれを改変しようとする思想ないし動機付けがもたらされるものということはできない。

第4 当裁判所の判断

 4 取消事由3(引用発明1に基づく容易想到性の判断の誤り)について

  (1) 引用発明1の認定

  公然実施品1(甲1の1~16)によれば,本件審決が認定したとおりの引用発明1(前記第2の3(2)ア)を認定することができ,この点につき,当事者間に争いはない。

  (2) 相違点1Bに係る容易想到性について

  ア 相違点1Bについて

  相違点1Bは,特定縫製(織物を2枚,1350dtexの撚り糸を用いて50回/10cmで本縫いする。)で縫合した縫合境界部における100N/cm負荷後の動的通気度(負荷後動的通気度)が,差圧50kPaにおいて,本件発明1は,1300mm/s以下であるのに対し,引用発明1は,1498mm/sであることであり,この点につき,当事者間に争いはない。

  本件明細書の記載によれば,縫合境界部とは,エアバッグを構成する際の基布パネルを縫合する縫目部又は袋織りにおける接結部であり,エアバッグ展開時において膨張する部分(膨張部)と膨張しない部分(非膨張部)の境界部(膨張境界部)を指し,縫合境界部の負荷後動的通気度は,エアバッグがガス圧で膨張して負荷が掛かった際の通気度を模した特性であると解される(【0016】)。

  イ 縫合境界部における負荷後動的通気度を小さくする動機付けについて

  (ア) エアバッグ用基布の縫製部(縫合境界部)に関し,本件優先日当時の公知文献において,(中略)。

  (イ) 前記(ア)によれば,エアバッグが膨張展開して乗員を受け止める際,縫合境界部に縫製糸と基布との目ズレが生じると,その目ズレからエアバッグ内のガスが漏出し,エアバッグの内圧が低下して乗員の衝撃を吸収し得なくなるなどの弊害があることから,エアバッグについては,膨張展開時において内圧を保つために上記目ズレを可能な限り小さくすることが求められており,この要請は,本件優先日当時,エアバッグの安全性を確保するために当然必要なものとして,当業者一般に認識されていたものと認められる。そして,膨張展開時における上記目ズレを少なくすれば,エアバッグ内のガスの漏出が少なくなり,それがエアバッグの内圧保持につながるのであるから,相違点1Bに係る縫合境界部における負荷後動的通気度も小さくなることは,当業者において自明のことということができる。

  以上によれば,当業者は,本件優先日当時,引用発明1において,エアバッグの膨張展開時における縫合境界部の目ズレを小さくし,負荷後動的通気度を小さくすることにつき,動機付けがあったものということができる

  ウ 膨張展開時における縫合境界部の目ズレを小さくする手段について

  (ア) 単糸繊度を小さくすること

  上記手段に関し,本件優先日当時の公知文献には,(中略)。

  これらの記載によれば,エアバッグの基布を構成する繊維の単繊維繊度すなわち単糸繊度が低いほど繊維の比表面積が大きくなることから,単繊維間の空隙が小さくなり,また,織組織を構成するマルチフィラメント相互の拘束力が高まって,外力によって目ズレが生じにくくなることが,本件優先日当時,当業者に周知されていたものということができる。

  したがって,当業者は,本件優先日当時,エアバッグの膨張展開時における縫合境界部の目ズレを小さくし,負荷後動的通気度を小さくするための手段の1つとして,エアバッグの基布を構成する組織の単糸繊度を低くするという手段があることを認識していたものということができる。

  さらに,前記公知文献には,(中略)など,引用発明1の単糸繊度である3.3dtexよりも低い値を含む範囲を好ましい値とする記載がある。

  以上によれば,当業者は,本件優先日当時,引用発明1において,エアバッグの膨張展開時における縫合境界部の目ズレを小さくし,負荷後動的通気度を小さくするために,その単糸繊度を3.3dtexよりも小さくすることを試みるものということができる

  (イ) カバーファクターを大きくすること

  また,膨張展開時における縫合境界部の目ズレを小さくする手段については,(中略),これらの記載によれば,当業者は,本件優先日当時,エアバッグの膨張展開時における縫合境界部の目ズレを小さくし,負荷後動的通気度を小さくするための手段の1つとして,カバーファクターを大きくするという手段があることを認識していたものということができる。

  そして,引用発明1のカバーファクターは,2131であるところ,上記公知文献には,(中略)との記載もある。

  以上によれば,当業者は,本件優先日当時,引用発明1において,エアバッグの膨張展開時における縫合境界部の目ズレを小さくし,負荷後動的通気度を小さくするために,そのカバーファクターを2131より大きくすることを試みるものということができる

  (ウ) 構成糸の引抜抵抗を大きくすること

  後記(3)によれば,当業者は,本件優先日当時,引用発明1において,エアバッグの膨張展開時における縫合境界部の目ズレを小さくし,負荷後動的通気度を小さくするために,構成糸の引抜抵抗を大きくすることにつき,動機付けがあったものということができる。

  エ 相違点1Bに係る構成の容易想到性について

  (ア) 単糸繊度を小さくすることについて

  前記ウ(ア)のとおり,当業者は,本件優先日当時,引用発明1において,エアバッグの膨張展開時における縫合境界部の目ズレを小さくし,負荷後動的通気度を小さくするために,その単糸繊度を3.3dtexよりも小さくすることを試みるものということができる。

  しかし,本件証拠上,単糸繊度の減少の程度と負荷後動的通気度の減少の程度との関係は,不明であり,この点に関する技術常識が本件優先日当時に存在したことも,うかがわれない。

  したがって,引用発明1における1498mm/sの負荷後動的通気度を本件発明1における負荷後動的通気度の数値範囲である1300mm/s以下にするために,引用発明1における単糸繊度3.3dtexをどの程度まで下げればよいのか,不明である。本件発明1において「縫製した場合に縫い針によるフィラメントの損傷がなく,縫い目部(膨張部と非膨張部の境界部)の強力が低下したり,展開時に破壊することもない」ことから(本件明細書【0013】),単糸繊度の下限値とされる2.0dtexよりも下げる必要がある場合も考えられる。

  (イ) カバーファクターを大きくすることについて

  前記ウ(イ)のとおり,当業者は,本件優先日当時,引用発明1において,エアバッグの膨張展開時における縫合境界部の目ズレを小さくし,負荷後動的通気度を小さくするために,そのカバーファクターを2131より大きくすることを試みるものということができる。

  しかし,本件証拠上,カバーファクターの増加の程度と負荷後動的通気度の減少の程度との関係は,不明であり,この点に関する技術常識が本件優先日当時に存在したことも,うかがわれない。

  したがって,引用発明1における1498mm/sの負荷後動的通気度を本件発明1における負荷後動的通気度の数値範囲である1300mm/s以下にするために,引用発明1におけるカバーファクター2131をどの程度まで上げればよいのか,不明である。本件発明1において「展開性能と生産性の両立性の観点から」より好ましいとして(本件明細書【0019】),カバーファクターの数値範囲とされる2100~2500の上限値までよりも上げる必要がある場合も考えられる。また,カバーファクターは,構成糸の経緯平均の総繊度と経緯平均の織密度によって算出されるものであるから(請求項1),カバーファクターの変動は,構成糸の総繊度にも影響を及ぼすものといえる。上記のとおり,引用発明1における1498mm/sの負荷後動的通気度を1300mm/s以下にするために,引用発明1におけるカバーファクター2131をどの程度まで上げればよいか不明である。そうである以上,その影響による引用発明1における総繊度236dtexの増加が,本件発明1において「550dtex以下の繊度であれば,展開速度が遅くなることがない。また,総繊度が低ければ,基布の剛軟度を低く抑えることができる」ことから(本件明細書【0013】),総繊度の上限値とされる550dtexまで挙げれば足りるのかも,不明である。同上限値よりも上げる必要がある場合も考えられる。

  (ウ) 構成糸の引抜抵抗を大きくすることについて

  前記ウ(ウ)のとおり,当業者は,本件優先日当時,引用発明1において,エアバッグの膨張展開時における縫合境界部の目ズレを小さくし,負荷後動的通気度を小さくするために,構成糸の引抜抵抗を大きくすることにつき,動機付けがあったものということができる。

  しかし,本件証拠上,引用発明1における1498mm/sの負荷後動的通気度を本件発明1における負荷後動的通気度の数値範囲である1300mm/s以下にするために,引用発明1における構成糸の引抜抵抗の経緯の平均値53N/cm/cmをどの程度まで上げればよいのか,本件発明1において「構成糸への局所的な応力集中が起こらなくなり,エアバッグ破壊を引き起こすこともない」として(本件明細書【0015】),上記平均値の上限値とされる200N/cm/cmまで上げれば足りるのかも,不明であり,上記上限値よりも上げる必要がある場合も考えられる。

  (エ) 以上によれば,当業者は,本件優先日当時において,相違点1Bに係る本件発明1の構成を容易に想到し得たということはできない

  オ 原告の主張について

  (ア) 原告は,本件審決が必然的連動論を採用したとして,同見解は,進歩性の判断方法に関するこれまでの実務を根底から覆すものである,基布等の各物性に関する多くのパラメータを羅列して各パラメータごとにその数値範囲を独立して設定したものという本件発明の本質に反するものである旨主張するところ,その趣旨は,本件発明と引用発明1ないし3との相違点に係る容易想到性の判断に当たり,当該相違点に係る発明特定要素の数値を変動させることによって,それ以外の,すなわち,本件発明と各引用発明の対比において一致点とされた発明特定要素の数値に及ぼす影響を考慮することを,論難するものと解される。

  しかし,本件発明の発明特定要素間に一定の相関関係があり,負荷後動的通気度については,構成糸の単糸繊度,カバーファクター及び構成糸の引抜抵抗の変動によって影響を受けることは,原告自身も認めるところである(甲106)。また,前記1(1)のとおり,本件明細書においても,「構成糸の4.7cN/dtex荷重時の伸度が低く,構成糸の引抜抵抗が高く,50N/cm及び300N/cm荷重時の基布伸度が低く,カバーファクターが高いものは,動的通気度が低くなる傾向にあり」(【0017】)など,発明特定要素間の相関関係が明記されており,本件発明は,原告が主張するような,各物性に関する多くのパラメータを羅列して各パラメータごとにその数値範囲を独立して設定したものということはできない。

  したがって,引用発明1の負荷後動的通気度を本件発明1における数値範囲内にすることができたとしても,その際,これに関係する構成糸の単糸繊度,カバーファクター,構成糸の引抜抵抗が変動し,結果としてこれらの要素に係る本件発明1の数値範囲を外れることは,あり得ることである。前記エのとおり,引用発明1において,構成糸の単糸繊度,カバーファクター及び構成糸の引抜抵抗を変動させる動機付けは認められるものの,これらの各要素に係る数値の変動の程度と負荷後動的通気度に係る数値の変動の程度との関係は,不明であり,この点に関する技術常識の存在もうかがわれない以上,引用発明1の負荷後動的通気度を本件発明1の数値範囲内にする際,上記各要素が本件発明1の数値範囲内にとどまるということはできない

  そして,前記エのとおり,上記各要素の数値範囲は,単糸繊度につき「2.0dtex以上であると,縫製した場合に縫い針によるフィラメントの損傷がなく,縫い目部(膨張部と非膨張部の境界部)の強力が低下したり,展開時に破壊することもない。」(【0013】)などの技術的意義に基づいて設けられたものである。

  以上のとおり,引用発明1の負荷後動的通気度を本件発明1における数値範囲内にしても,これに関係する上記要素が本件発明1の技術的意義に基づいて設けられた数値範囲内にとどまるといえないから,結局は,本件発明1の構成に至るとはいえず,したがって,本件発明1の構成を容易に想到できるということはできない。

【検討】

1.公然実施発明を主引用発明とする場合の動機付け

 本件審決は,「甲1発明は「既存の製品」であって機能に応じた最適化がなされているから,変更のためには,相応の動機が必要と解される。」と判断した。一方で,本件判決は,引用発明1が「既存の製品」であることを理由として,動機付けの程度に強弱を付けるといったような判示はしていない。

 「既存の製品」が機能に応じて最適化がされていることは肯定できる面があるとしても,それは当該「既存の製品」の設計時点(より時期的に後ろだと考えても,販売時点)の話であって,「既存の製品」の設計(又は販売)から本件発明の出願時点までに期間が空いているのであれば,その間に「既存の製品」に対して課題が生じることは十分に考えられる。このような事情を考慮すれば,本件発明の出願時点を基準とした時には,「既存の製品」は必ずしも最適化がされているとはいえないと考える。

 本件発明の出願時点において,「既存の製品」に関して,あるいは,「既存の製品」と同種の製品一般に関して,特定の課題,自明の課題,一般的な課題,あるいは,周知の課題が生じていれば,「既存の製品」を変更しようとする動機付けは生じるはずで,「既存の製品」であることを理由として,その変更のために,相応の動機が必要と解する本件審決の判断は妥当でないと考える。本件判決が,本件審決のような判示をしていないのは,「既存の製品」であることを理由として,その変更のために,相応の動機が必要とは解していないからではないだろうか。

2.動機付けの対象

 本件審決は,「甲1発明において,動的通気度に影響を与える,沸水収縮率,構成糸の単糸繊度,構成糸の引抜抵抗,カバーファクターを,本件発明1が特定する範囲内で変更し,動的通気度を「1300mm/s以下」という具体的範囲にするまでの動機があるとは言えず,これが可能であることを示す証拠もない。」との判断をする。

 一方,本件判決は,相違点である縫合境界部における負荷後動的通気度について,これを小さくすることの動機付けを問題にした上で,この動機付け自体は肯定している。その上で,本件判決は,縫合境界部における負荷後動的通気度を小さくする手段,すなわち,膨張展開時における縫合境界部の目ズレを小さくする手段について複数(単糸繊度を小さくすること,カバーファクターを大きくすること,構成糸の引抜抵抗を大きくすること)検討し,いずれも,当業者が,これらの手段を取って,本件発明の範囲にしようと試みることができる旨判断する。しかし,引用発明1の負荷後動的通気度を本件発明1における数値範囲内にすることができたとしても,その際,負荷後動的通気度と相関関係にある構成糸の単糸繊度,カバーファクター,構成糸の引抜抵抗が変動し,結果としてこれらの要素に係る本件発明1の数値範囲を外れることは,あり得ることである等判断して,容易想到性を否定した。

 以上のように,本件審決及び本件判決のいずれも容易想到性を否定したという点においては同じであるが,その判断に至るまでの過程に違いがある。本件審決は,「沸水収縮率,構成糸の単糸繊度,構成糸の引抜抵抗,カバーファクターを,本件発明1が特定する範囲内で変更し,動的通気度を「1300mm/s以下」という具体的範囲にする」ことの動機を問題とする一方,本件判決は,まず,縫合境界部における負荷後動的通気度を小さくすることの動機づけを問題にし,これが肯定されることを認定した上で,膨張展開時における縫合境界部の目ズレを小さくする手段について検討しており,より緻密な判断をしているといえる。本件優先日当時,エアバッグの膨張展開時における縫合境界部の目ズレを小さくすることが求められていたことが当業者一般に認識されていたのであれば,エアバッグの膨張展開時における縫合境界部の目ズレを小さくしようとすること,すなわち,縫合境界部における負荷後動的通気度も小さくしようとすることを対象として動機付けの有無を判断した本件判決は妥当だと考える。

 本判決は,公然実施発明について興味深い判断がされた事案であったことから,紹介した。

以上

弁護士・弁理士 梶井 啓順