【平成28年3月29日判決(東京地裁 平成27年(ワ)第13006号)】
【事案】
本件は、被告の従業員であった原告が、被告に在籍中にした職務発明について特許を受ける権利を被告に承継させたと主張して、被告に対し、5000万円の支払を求めた事案である。
裁判所は、原告が被告との間で締結した契約等により、原告は、相当対価請求権を放棄したものと認めるのが相当である、と判断した。
【キーワード】
特許法第35条、職務発明、対価請求権
【事案の概要】
本件は、被告の従業員であった原告が、被告に在籍中にした職務発明について特許を受ける権利を被告に承継させたと主張して、被告に対し、平成16年法律第79号による改正前の特許法35条(以下「旧35条」という。)3項に基づく相当の対価請求として、48億3302万1134円の一部である5000万円及びこれに対する平成27年5月15日(本件訴えの提起の日)から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求めた事案である。
原告は、昭和52年4月から平成26年3月までの間、被告の従業員として被告又は被告の関連会社に勤務し、同月に被告を定年退職した後、同年4月からは、被告の関連会社に常勤の嘱託従業員として勤務している。
被告は、生命保険業等を目的とする株式会社であり、平成15年4月、相互会社から株式会社に組織変更した。
被告は、次の特許権(以下「本件特許権」といい、これに係る特許を「本件特許」という。)を有している。
特許番号 第3682274号
発明の名称 会計管理方法、会計管理装置、記録媒体及びコンピュータ・プログラム製品
出願日 平成14年6月26日
登録日 平成17年5月27日
【争点】
本件の争点は、以下のとおりである。
(1)本件発明についての相当対価請求権の有無及び対価の額(争点1)
(2)相当対価請求権の放棄の有無(争点2)
(3)消滅時効の成否(争点3)
本稿では、「相当対価請求権の放棄の有無(争点2)」について取り上げる。
【判決一部抜粋】(下線は筆者による。)
第1 請求
・・(省略)・・
第2 事案の概要
・・(省略)・・
1 前提事実(証拠等を掲げた事実以外は、当事者間に争いがない。)
・・(省略)・・
(3)原告の職務発明及び特許を受ける権利の承継
ア 原告は、被告に在籍中、単独で本件発明をした。本件発明は、被告の業務範囲に属し、かつ、発明をするに至った行為が被告における原告の職務に属するものであって、旧35条1項所定の職務発明に当たる。
イ 原告と被告は、後記(4)の職務発明規定に基づき、平成13年11月21日、原告が被告に対し、本件発明について特許を受ける権利を譲渡する旨の契約(以下「本件契約」という。)を締結し、これにより被告が本件発明について特許を受ける権利を承継した。
本件契約には、次の条項がおかれている。
(ア) 乙(判決注:原告)は、日本国及び他の国において本発明(判決注:本件発明に相当する「アドオン方式の二重価格理論」)に基づいて特許を受ける権利を、甲(判決注:被告)に譲渡する。(1条)
(イ) 前条の譲渡の対価として、甲は、乙に対して、特許出願手続時に金1万円、特許登録手続時に金1万円を支払う。両当事者は、本発明が職務発明であり、本条の対価が、本発明により甲が受けるべき利益の額及びその発明がされるについて甲が貢献した程度を考慮して定められたものであり、乙は、特許法第35条(判決注:旧35条)3項に基づいて、本条の対価以外に、相当の対価の支払を求める権利を有していないことを確認する。(2条)
(ウ) 本発明が特許され、かつ、第三者にライセンス又は譲渡されることなどにより甲が利益を受けた場合には、甲は乙とその報奨金の支払いにつき、協議するものとする。(3条)
(エ) 本契約書の締結にあたり、乙は、職務発明等に関する特許法の規定及びこれに関する判例について、理解した上で、契約を締結したことを確認する。(4条)(甲9)
ウ 被告は、原告に対し、本件契約2条に基づき、本件発明に係る特許を受ける権利の譲渡の対価として、平成13年11月21日(本件契約の締結日)に1万円、平成17年9月5日に1万円の合計2万円を支払った。
また、被告は、本件特許につき第三者に実施許諾をしておらず、被告以外の第三者が本件発明を実施している事実もない。(甲28、34、35)
(4)被告の職務発明規定
被告は、従業員が職務発明をした場合の取扱等について、本件契約の締結日である平成13年11月21日の時点において、職務発明規定(以下「本件規定」という。)を設けていた。本件規定には、被告従業員の職務発明についての特許を受ける権利の譲渡及び補償等について、次の条項がおかれている。
ア 従業員が会社の業務範囲に属する発明をした場合は、当該従業員はその内容を自己の所属長に対し届け出るものとし、所属長は遅滞なくその内容を会社に届出なければならない。(3条)
イ 従業員は、前条により届出た発明で、職務発明に該当するものについては、その発明の日本国および外国における特許を受ける権利を会社に譲渡しなければならない。(4条1項)
ウ 会社は、第4条第1項(中略)により特許を受ける権利を譲り受けた場合、必要と認めるものについて特許出願を行う。(6条1項)
エ 前条第1項により特許出願を行った場合には、会社は発明者に金10、000円の補償金を支給する。(7条)
オ 第6条第1項により特許出願を行った発明に特許権が設定された場合には、会社は発明者に金10、000円の補償金を支給する。(8条)(乙1)
3 争点に関する当事者の主張
・・(省略)・・
(2)争点(2)(相当対価請求権の放棄の有無)について
[被告の主張]
原告は、本件契約に係る契約書に署名押印を行うことにより、特許出願手続時に支払を受ける1万円、登録手続時に支払を受ける1万円の各請求権を除き、旧35条3項の相当対価請求権を放棄する意思表示をした。本件契約は、補償金条項を有する本件規定の存在を前提に、これと重ねて締結されたものであり、本件契約2条が「乙は、特許法第35条3項に基づいて、本条の対価以外に、相当の対価の支払を求める権利を有していないことを確認する。」と規定していることに鑑みると、同条は、本件規定に記載されたもの以外にも不足分の相当対価請求権が抽象的には存在し得ることを前提として、なおこれを放棄することを確認したものと解される。なお、本件契約3条は「第三者にライセンス又は譲渡されること」があった場合には報奨金の支払につき協議することを定めるが、本件特許は、第三者へのライセンスも譲渡もされていない。
[原告の主張]
争う。
原告は、本件契約の締結に当たり、被告に対し、現時点では特段の異論はないが、本件契約締結後に本件規定を改正し、発明者である原告から協議の申し入れができるようにしてほしいと提言した。こうした経緯から、平成17年4月1日に本件規定が改訂されて「第7条および第8条に定める補償金の額によることが特許法第35条の趣旨に鑑みて不適当となるおそれがある場合には、会社または発明者からの申し出により出願補償および登録補償の額につき別途協議のうえ定めた額をもって補償金とする。」(10条)という条項が新設された。原告は、同年7月6日、新設された同条項に基づく別途協議申立書を提出して補償金請求を行ったのであり、このような本件契約の締結状況及びその後の原告・被告間のやり取りを勘案すると、本件契約2条は、当事者を拘束しない事実上の死文条項とみるべきである。
・・(省略)・・
第3 当裁判所の判断
・・(省略)・・
2 争点(2)(相当対価請求権の放棄の有無)について
上記1に検討したところによれば、本件請求に理由がないことは既に明らかであるが、なお念のため、争点(2)についても検討する。
(1) 上記第2の1(3)イのとおり、本件契約には、「譲渡の対価として、甲は、乙に対して、特許出願手続時に金1万円、特許登録手続時に金1万円を支払う。両当事者は、本発明が職務発明であり、本条の対価が、本発明により甲が受けるべき利益の額及びその発明がされるについて甲が貢献した程度を考慮して定められたものであり、乙は、特許法第35条3項に基づいて、本条の対価以外に、相当の対価の支払を求める権利を有していないことを確認する。」(2条)、「本発明が特許され、かつ、第三者にライセンス又は譲渡されることなどにより甲が利益を受けた場合には、甲は乙とその報奨金の支払いにつき、協議するものとする。」(3条)、「本契約書の締結にあたり、乙は、職務発明等に関する特許法の規定及びこれに関する判例について、理解した上で、契約を締結したことを確認する。」(4条)との条項がおかれている。
そして、本件契約2条及び4条にはいずれも何らの留保も付されていないこと、本件契約3条が報奨金支払について被告と原告が再協議すべき場合を限定的に規定していることに鑑みると、これらの各条項は、職務発明規定に記載されたもの以外にも不足分の相当対価請求権が抽象的には存在し得ることを前提として、本件契約3条に該当する場合を除き、職務発明の相当対価請求権を放棄することを確認したものとみるのが合理的である(なお、上記1(3)のとおり、本件発明の価値が皆無又は極めて小さいと認められることも、上記解釈に沿う事情といえる。)。
したがって、原告は、本件発明に関する相当対価請求権を放棄したものと認めるのが相当である(なお、原告は、本件特許の領域に係るノウハウがb社にライセンスされているなどと主張するが、これを認めるに足る証拠はないし、原告の主張によっても本件特許自体のライセンスがされているわけでもないから、本件契約3条の適用がないことも明らかである。)。
(2) これに対し、原告は、本件契約締結後の平成17年4月1日に本件規定が改訂されて「第7条および第8条に定める補償金の額によることが特許法第35条の趣旨に鑑みて不適当となるおそれがある場合には、会社または発明者からの申し出により出願補償および登録補償の額につき別途協議のうえ定めた額をもって補償金とする。」(10条)という条項が新設され、原告が、同年7月6日、新設された同条項に基づく別途協議申立書を提出して補償金請求を行ったから、本件契約2条は、契約当事者である原告及び被告を拘束しない事実上の死文条項となったなどと主張するが、本件契約の締結後に本件規定が改訂されたからといって本件契約の拘束力が当然に消滅するわけではないから、原告の主張を採用することはできない。
・・(以下、省略)・・
【検討】
本件は、被告である会社が、被告の従業員であった原告に対し、原告が、本件契約に係る契約書に署名押印することにより、特許出願手続時に支払を受ける1万円、登録手続時に支払を受ける1万円の各請求権を除き、旧35条3項の相当対価請求権を放棄する意思表示をしたと主張したのに対し、裁判所も、本件契約により、原告は、本件発明に関する相当対価請求権を放棄したものと認めるのが相当である、と判断したものである。
通常、会社の従業員が業務上行った発明については、会社の就業規則や職務発明規程において、特許を受ける権利は会社に帰属するものとし、他方、会社から従業員に対して相当の金銭その他の経済上の利益(以下「相当の利益」という。)を提供することが定められているのが一般的である。もっとも、退職者に対する相当の利益の取扱いについては各社様々であり、従業員の退職にあたり、相当の利益に関する契約書・誓約書・承諾書等を提出させる運用がなされている場合もある。
本件では、裁判所は、「本件発明の価値が皆無又は極めて小さいと認められる」と認定した上で、本件契約の条項について、「2条及び4条にはいずれも何らの留保も付されていないこと」、「本件契約3条が報奨金支払について被告と原告が再協議すべき場合を限定的に規定していること」によれば、各条項は、職務発明規程に記載されたもの以外にも不足分の相当対価請求権が抽象的には存在し得ることを前提として、本件契約3条に該当する場合を除き、職務発明の相当対価請求権を放棄することを確認したものとみるのが合理的である、と判断した。
相当対価請求権が放棄されたか否かが争われた事案は他にも存在するが(例えば、従業員が相当対価請求権を放棄する旨の意思表示をしたと認めることはできない、と裁判所が判断した事案につき、東京地裁平成29年3月27日判決(平成26年(ワ)第15187号)、大阪地裁平成24年10月16日判決(平成21年(ワ)第4377号)等)、本件では、本件発明の価値が皆無又は極めて小さいと認定した上で、本件契約の条項に基づいて、従業員が相当対価請求権を放棄したものと認めるのが相当である、と判断した点に特徴がある。
本件は、職務発明制度の見直しに係る平成27年特許法改正前の事案であるが、退職者に対する相当の利益の取扱いを定める会社の立場、及び会社に対して相当の利益を請求する従業員の立場の双方から参考になる判決である。
以上
弁護士・弁理士 溝田尚