【大阪地判令和元年6月20日・平成29年(ワ)第9201号】
【キーワード】
実施可能要件、誤記
第1 はじめに
本判決は、被告製品の差止め、損害賠償が認められた特許権侵害訴訟である。
このうち、明細書の実施例の誤記が問題になった実施可能要件に関する争点のみを取り上げることとする。
第2 事案
1 本件発明1
本件特許発明は、以下のとおりである(「本件発明1」)である。
「【請求項1】
発泡性アルコール組成物であって、低い圧力で空気と混合されるときに発泡性であり、下記の成分;
a)全組成物の少なくとも40% v/vの量で存在する、C1−4アルコール又はその混合物;
b)全組成物の0.01重量%〜10.0重量%の量で存在する、発泡のための、シリコーン骨格を含有する親油性鎖を含む生理的に許容されるシリコーン・ベースの界面活性剤を含む発泡剤であって、bis-PEG-[10-20]ジメチコーン、又はbis-PEG-[10-20]ジメチコーンの混合物であり、組成物を空気と混合するディスペンサーポンプを有する無加圧ディスペンサーから分配されるときに、該発泡性アルコール組成物が空気と混合されて泡が形成される発泡剤;及び
c)全組成物を100重量%とする量で存在する水
を含む発泡性アルコール組成物。」
2 実施例の記載
第3 主な争点
構成要件の充足性、無効理由(サポート要件、実施可能要件、進歩性欠如)。
本稿では、実施可能要件についてのみ触れる。
第4 作用効果不奏功の抗弁についての当事者の主張(下線は筆者)
「3 争点2-2(実施可能要件違反の有無)について
(被告らの主張)
本件明細書の発明の詳細な説明の記載は,以下のとおり,特許法36条4項1号の要件(実施可能要件)を満たしていない。
・・・
(2) 本件明細書の実施例33~36の各組成物(エタノール:約69.6%v/v=62.00重量%)について,「泡の生成」欄には「無」と記載されているところ,他の実施例に係る記載等を併せ考慮すれば,「泡の生成」欄の記載と「泡の評価/記述/特性」欄の記載との間に一定の関係はない。このため,後者の欄に泡が生成したことを前提とするかのような記載があるからといって,これを根拠に泡の生成があったとはいえない。
また,実施例17~19の各組成物に係る「泡の評価/記述/特性」欄の記載を比較すると,エタノール濃度の上昇に伴って生成する泡の質が低下して持続時間も短くなる傾向が見て取れることに,本件明細書の記載(【0060】,【0087】)を併せて参酌すると,エタノール濃度が実施例17~19の各組成物よりも高い実施例33~36の各組成物において,泡の生成があったとは直ちにはいえないことなどに照らせば,同実施例に係る「泡の生成」欄の「無」の記載は「有」の誤記ではない。
また,実施例20の組成物については,「泡の評価/記述/特性」欄が「…」と記載されているところ,同実施例のエタノール濃度が実施例17~19の各組成物よりも高いことに鑑みると,泡は生成されなかったと解釈される。さらに,実施例32の組成物は泡が生成されないことに,実施例13及び14の各組成物を比較すると,bis-PEG-20ジメチコーンよりも3-(3-ヒドロキシプロピル)-ヘプタメチルトリシロキサン,エトキシレーテッド,アセテートの方が泡の質及び持続時間を向上させることが見て取れることに鑑みると,実施例32の組成物と異なり発泡剤がbis-PEG20ジメチコーンである実施例20の組成物において泡の生成があったとはいえない。
以上の事情等に照らせば,実施例20の「泡の生成」欄の「有」の記載は「無」の誤記である。
このように,本件明細書には,低級アルコールを約81.3%v/vより高い濃度で含有する場合には本件特許に係る発明の課題が解決できないことが示されている。また,低級アルコールを約67.7%v/vより高い濃度で含有する場合に本件特許に係る発明の課題が解決できることを示す実施例は,記載されていない。
したがって,本件明細書には,当業者が本件特許に係る発明を実施することができる程度に明確かつ十分な記載はない。
(原告の主張)
被告らが実施可能要件違反の根拠として指摘する点は,以下のとおりいずれも誤っており,本件特許に実施可能要件違反の無効理由は存しない。
・・・
(2) 本件明細書の実施例33~36の各組成物は,「泡の生成」欄には「無」と記載されているものの,「泡の評価/記述/特性」欄には生成した泡に関する具体的な記載がされている。また,実施例19の組成物は泡が生成したとされているところ,本件明細書には,評価が好ましく所望の持続時間の泡を得るには,高アルコール濃度では,bis-PEG-20ジメチコーン濃度を高める必要性がある旨の記載がある(【0087】等)。さらに,実施例33~36の各組成物が,実施例19の組成物と比較して,エタノール濃度は近似する一方,bis-PEG-20ジメチコーン濃度は高いことに照らせば,泡が生成したものであって,「泡の生成」欄の「無」の記載は「有」の誤記である。
また,実施例20の組成物は,「泡の評価/記述/特性」欄には「…」と記載されているものの,本件明細書には,シリコーン・ベースの界面活性剤を使用することにより,アルコール濃度が約90%v/vという高濃度である場合であっても,発泡性組成物を得ることができるという記載がある(【0043】等)。しかも,本件明細書には,評価が好ましく所望の持続時間の泡を得るには,高アルコール濃度では,bis-PEG-20ジメチコーン濃度を高める必要性があるとの記載もある。これらの記載によれば,bis-PEG-20ジメチコーンを大量に含む実施例20の組成物は,泡が生成したものであって,「泡の生成」欄の「有」の記載は正しい。
これらの記載を参照した当業者もそのように理解することから,本件明細書には,当業者が本件特許に係る発明を実施することができる程度に明確かつ十分な記載がされている。」
第5 裁判所の判断
「第4 当裁判所の判断
1 無効理由の存否について
事案に鑑み,まず無効理由の存否について判断することとするが,当裁判所は,後記2~6のとおり,本件特許につき,特許無効審判により無効にされるべきものとは認められないと判断する。理由は以下のとおりである。
・・・
4 争点2-2(実施可能要件違反の有無)について
(1) 明細書の発明の詳細な説明の記載が実施可能要件に適合するというためには,物の発明にあっては,当業者が明細書及び図面の記載並びに出願当時の技術常識に基づいて,その物を生産でき,かつ,使用できるように,具体的に記載されていることが必要であると解される。
(2) 本件各発明に係る発泡性アルコール組成物の生産可能性
ア シリコーン・ベースの界面活性剤に着目すると,本件明細書には,アルコールの濃度とシリコーン・ベースの界面活性剤の濃度に関し,「50~60%v/vアルコール水溶液と共に0.5~1.0%のシリコーン・ベースの界面活性剤を使用すると安定な泡を生成し,」「アルコールの使用パーセンテージが65%w/wより多い場合には5%以下のレベルを必要とする。」(【0060】)との記載がある。また,実施例17~19に係る「泡の評価/記述/特性」欄の記載からは,bis-PEG-20ジメチコーンの濃度が同じ(0.01重量%)場合,エタノールの濃度が40重量%,50重量%,60重量%と高くなるほど泡の評価が下がり,泡の持続時間も短くなる傾向があること,実施例33~36に係る「泡の評価/記述/特性」欄の記載からは,エタノールの濃度が同じ(62重量%)場合,bis-PEG-20ジメチコーンの濃度が0.50重量%,1.00重量%,2.0重量%,5.00重量%と高くなるほど泡の評価や持続性が向上することが,それぞれ読み取れる。さらに,界面活性剤の濃度と表面張力低下作用の関係につき,一般的に,シリコーン・ベースの界面活性剤だけを含む組成物が表面張力をより低いレベルに低下させるとの結果を達成するためには,より高いパーセンテージのシリコーン・ベースの界面活性剤を必要とするとの記載もある(【0076】)。
そうすると,これらの記載に接した当業者は,アルコール濃度が高い発泡性組成物を得るためには,bis-PEG-[10-20]ジメチコーンを多く配合しなければならないことが理解できる。
以上によれば,本件明細書に接した当業者は,アルコール濃度が高いとの理由により,組成物が発泡しなかったり,良好な泡の性質が得られなかったりした場合には,上記記載内容に基づき,bis-PEG-[10-20]ジメチコーン又はその混合物の含有量を増やすことによって発泡性や泡質を改善できることを,格別の困難を伴うことなく理解し得るというべきである。このことは,bis-PEG-[10-20]ジメチコーン又はその混合物の含有量が,請求項1に特定されている下限値の全組成物の0.01重量%である組成物,ひいては本件発明5及び6についても同様である。
したがって,本件明細書の発明の詳細な説明には,本件各発明の発泡性アルコール組成物について,当業者が,本件明細書の記載に基づき,その組成物を生産できかつ,使用できるように,具体的に記載されていると認められる。
イ 被告らの主張について
(ア) 被告らは,本件明細書の実施例20及び33~36では泡が生成されていないとの理解を前提に,本件明細書には,低級アルコールを約81.3%v/vより高い濃度で含有する場合には本件特許に係る発明の課題が解決できないことが示されているとともに,低級アルコールを約67.7%v/vより高い濃度で含有する場合に本件特許に係る発明の課題が解決できることを示す実施例は記載されていないなどと主張する。
・・・
(ウ) 本件明細書において,実施例20では「泡の生成」欄は「有」とされる一方で,「泡の評価/記述/特性」欄は「…」と記載されている。また,実施例33~36では「泡の生成」欄はいずれも「無」とされながら,「泡の評価/記述/特性」欄には,「急速に次々と壊れる泡は1分間より長く持続する」(実施例33),「良いクリーミーかつソフトな泡は1分間より長く持続する」(同34),「極めて良いクリーミーかつソフトな泡は1分間より長く持続する」(同35),「極めて良いクリーミーかつソフトな泡は数分間持続する」(同36)と記載されている。
まず,実施例33~36に係る上記各記載について,その「泡の評価/記述/特性」欄の記載はかなり具体的なものといってよく,しかも,他の実施例のうち「泡の生成」欄が「有」となっているものの「泡の評価/記述/特性」欄の記載と対比すると,実施例33~36の「泡の生成」欄が「無」とされていることはむしろ不合理というほかない。このような事情は,上記各実施例に係る「泡の生成」欄の記載が誤記であることを強くうかがわせるものである(なお,上記他の実施例の「泡の評価/記述/特性」欄の記載が誤りであること,実施例33~36の「泡の評価/記述/特性」欄の記載が他の実施例に関するものを誤って記載したものであることをうかがわせる証拠は,いずれも見当たらない。)。
また,本件明細書は,シリコーン・ベースの界面活性剤の含有量を増加させることが発泡性の向上ないし泡の質の増強につながることを示唆している(【0060】,【0087】。なお,このような理解は,甲18の発泡試験結果及び甲31の再現試験の結果とも符合する。)。たとえ,エタノール濃度が高くなるに従って泡が生成されにくくなる傾向が認められるとしても,実施例33~36は,「泡の生成」欄が「有」とされる実施例19と比較して,エタノールの濃度はわずか2重量%しか増加していない(約1.03倍)のに対し,bis-PEG-20ジメチコーンは50倍以上もの量を含有していることに鑑みると,これらの実施例において泡が生成されないとは考え難い。
そうすると,実施例33~36については,「泡の評価/記述/特性」欄の記載及びその組成に照らし,泡が生成したと考えるのが合理的である。このため,当業者は,本件明細書全体の記載を踏まえ,実施例33~36に係る「泡の生成」欄の「無」の記載は誤記である可能性が相当に高いものと理解すると見られる。
また,以上に鑑みれば,エタノール濃度が高くなっても,bis-PEG-20ジメチコーンの濃度を高くすることにより(ただし,本件各発明に係る組成物において,アルコールのほか,bis-PEG-[10-20]ジメチコーン等及び水が必須の成分として含有されることなどを考えると,アルコール濃度には事実上の上限が想定されていると考えられる。),本件各発明に係る発泡性アルコール組成物はなお生産可能であると考えるのが合理的である。そうである以上,実施例20についても,実施例19と比較してエタノール濃度は15重量%高いものの,bis-PEG-20ジメチコーンは800倍もの量を含有していることを踏まえると,本件明細書に接した当業者は,「泡の評価/記述/特性」欄の記載が「…」であってもなお,「泡の生成」欄記載のとおり,同実施例の溶液により泡が生成された可能性は高い(その意味で,「泡の評価/記述/特性」欄の記載は誤記である可能性が高い)と理解するというべきである。
(エ) その他被告らがるる主張する事情を考慮しても,この点に関する被告らの主張は採用できない。
(3) 小括
以上より,本件明細書の発明の詳細な説明の記載は,実施可能要件に違反するものとはいえない。」
第6 検討
本件明細書の実施例の結果を表す表には、発泡の有無と、発泡があった場合には泡の様子が記載されている。
ところが、実施例20については、発泡は「有」であるにも拘わらず、発泡の様子は、「・・・」と記載され、発泡がなかったかのように記載されている。
また、実施例33~36については、発泡が「無」であるにもかかわらず、発泡の様子が詳細に記載されている。
このような誤記について、被告は、実施例33~36の発泡「無」は誤記ではなく、実際に発泡がなかったのであり、本件明細書は、特定条件下では、発泡がない(=本件発明が実施できない)ことが記載されていると主張した。
これに対して、裁判所は、本件明細書の一般記載や他の実施例から、アルコール濃度が高い発泡性組成物を得るためには,bis-PEG-[10-20]ジメチコーンを多く配合しなければならないことが理解できる、と認定し、bis-PEG-[10-20]ジメチコーンが多く配合され、泡の様子が詳細に記載されている実施例33~36は、発泡の「無」の部分が誤記であり、実際には発泡があった、つまり、発明を実施できていると認定した。
実施例とは、当該発明の構成としたときに所望の効果が得られることを実験して確かめた結果が記載されるものであり、所与のものとして扱われることが多いように思われる(被疑侵害者などの相手方が明細書の実施例の不合理な点を指摘しても取り上げて貰えないことが多い。)。しかしながら、本件では、発泡が「無」なのに、泡の様子が記載されているというように、実施例の記載の中で矛盾が生じており、なにかしらの誤記があることは明らかであった。
以上
(文責)弁護士 篠田淳郎