【令和6年4月22日(知財高裁 令和5年(行ケ)第10091号)】
【要約】
炭素原子と珪素原子の比が構成要件とされる発明の進歩性の判断において、主引用発明に記載された炭素原子、酸素原子及び珪素原子の比から炭素原子及び珪素原子の比を抽出する根拠がないと判断された。
【キーワード】
進歩性、技術的意義
1 事案
原告の特許(以下「本件特許」という。)について異議申立てがされ、特許庁が、原告による訂正を認めた上で、進歩性欠如(甲3発明に甲4記載事項を適用することにより容易想到)を理由として本件特許を取り消した(以下「本件決定」という。)。そこで、原告は、本件決定の取消しを求めて本件訴訟を提起した。
本件特許に記載された発明は、概要、ポリエステルフィルム基材に代えてポリプロピレンフィルムの延伸フィルムを用いようとすると、延伸ポリプロピレンフィルムと蒸着膜との層間で剥離が生じ、ガスバリア性が不十分となっているという問題に対処するため、蒸着膜との層間の密着性に優れる多層基材を備え、高いガスバリア性を有するバリア性積層体を提供することに関する発明である。その請求項1(訂正後のもの。以下、請求項1に係る発明を「本件発明1」という。)は、以下のとおりである。
【請求項1】
多層基材と、蒸着膜と、前記蒸着膜上に設けられたバリアコート層とを備えるバリア性積層体であって、
前記多層基材は、少なくともポリプロピレン樹脂層と表面コート層とを備え、
前記ポリプロピレン樹脂層は、延伸処理が施されており、
前記表面コート層が、極性基を有する樹脂材料を含み、
前記蒸着膜は、前記多層基材の表面コート層上に設けられており、
前記蒸着膜が、無機酸化物からなり、
前記バリアコート層が、金属アルコキシドと水溶性高分子との樹脂組成物から構成されるガスバリア性塗布膜であるか、または、金属アルコキシドと、水溶性高分子と、シランカップリング剤との樹脂組成物から構成されるガスバリア性塗布膜であり、
前記ガスバリア性塗布膜の表面は、X線光電子分光法(XPS)により測定される珪素原子と炭素原子の比(Si/C)が、0.90以上1.60以下であることを特徴とする、ボイルまたはレトルト用バリア性積層体。
本件訴訟で主に問題となったのは、本件発明1と主引用文献である甲3に記載された甲3発明との相違点1-2及び相違点1-3に係る容易想到性である。
本件決定において、甲3発明は以下のとおり認定された。
高分子フィルム基材の表面に金属酸化物蒸着層と有機無機ハイブリッドバリア層が順次設けられたバリア性フィルムであって、該有機無機ハイブリッドバリア層は、X線光電子分光分析法によるアトミックパーセントの分析において、炭素と酸素と珪素が、それぞれ15~50%、30~65%、5~30%の割合で存在することが確認されるバリア性フィルムであって、
前記金属酸化物蒸着層が、酸化アルミニウムからなる蒸着層であり、該蒸着層には、X線光電子分光分析法によってアルミニウムと酸素とが、1:1.5~1:3.0の割合で含まれていることが確認され、
前記高分子フィルム基材の表面にアンカーコート層を設け、
前記金属酸化物蒸着層は前記アンカーコート層上に設けられ、
前記アンカーコート層が、アクリルポリオール、イソシアネート化合物、及び一般式R’Si(OR)3(R’はアルキル基、ビニル基、グリシドキシプロピル基、アミノ基、イソシアネート基及びメルカプト基のいずれか1種)であらわされる3官能オルガノシランまたはその加水分解物を含む組成物からなり、
有機無機ハイブリッドバリア層は、水酸基を有する水溶性高分子と、1種以上の金属アルコキシド及びその加水分解物、及び水/アルコール混合溶液を主剤とするコーティング剤を高分子フィルム基材の表面に塗布し、加熱乾燥することによって形成される、食品等の包装材料として使用可能なバリア性フィルム。
また、本件決定で認定された、本件発明1と甲3発明の相違点は、以下のとおりである。
相違点1-1
「樹脂層」に関して、本件発明1のものは「延伸処理が施されて」いる「ポリプロピレン樹脂層」であるのに対して、甲3発明のものは「高分子フィルム基材」である点。
相違点1-2
本件発明1は、「前記ガスバリア性塗布膜の表面は、X線光電子分光法(XPS)により測定される珪素原子と炭素原子の比(Si/C)が、0.90以上1.60以下である」のに対して、甲3発明は「該有機無機ハイブリッドバリア層は、X線光電子分光分析法によるアトミックパーセントの分析において、炭素と酸素と珪素が、それぞれ15~50%、30~65%、5~30%の割合で存在することが確認される」点。
相違点1-3
本件発明1は、用途が「ボイルまたはレトルト用」であるのに対して、甲3発明は「食品等の包装材料として使用可能」なものである点。
本件決定が、甲3発明に、甲4記載事項のオーバーコート層における炭素原子に対する珪素原子の比率を適用することにより本件発明1を容易想到と判断した。
原告は、甲3発明の認定を争い、各相違点の認定を争うとともに、仮に甲3発明が本件決定のとおり認定さるとしても甲3発明に甲4記載事項を適用する動機付けがないと主張した。
2 判決
本判決は、甲3発明は、本件決定のとおり認めたが、相違点1-2及び相違点1-3に係る容易想到性につき、「本件明細書によれば、珪素原子と炭素原子の比(Si/C)の上限は、バリア性積層体を屈曲させてもガスバリア性の低下を抑制できるという観点から定められ、下限は、バリア性積層体を加熱してもガスバリア性の低下を抑制できるという観点から定められているのであるから(【0076】、表5~表7)、ボイル又はレトルト用であるか否かに係る相違点1-3と、珪素原子と炭素原子の比の数値範囲に係る相違点1-2は、一体として検討されるべきものである」として一括して以下のように判断した(重要な部分に下線を引いた。)。なお、甲4記載事項の認定には争いがない。
ウ 本件決定は、甲3発明に、甲4記載事項のオーバーコート層における炭素原子に対する珪素原子の比率を適用するものである。
しかし、甲4記載事項は、前提とする積層構造が、甲3発明と異なる上、以下のとおり、甲4は、甲3発明とは技術分野が共通するものとはいい難く、さらに、相違点1-3に係る構成(ボイル又はレトルト用)を開示又は示唆するものでもない。すなわち、甲4は、高温高湿な環境においても長期間断熱性能を維持することができる真空断熱材用外包材等の提供を目的とするものであるが(【0008】)、高温多湿な「環境」を想定するにとどまり、物を入れて積極的に加熱殺菌処理をする行為であるレトルトやボイル(一例として、優先日前の公知文献である特開2007-137438号公報〔乙4〕では、レトルト処理について110℃~130℃位、圧力、1~3Kgf/cm 2 ・G位で約20~60分間程度の加熱加圧殺菌処理、ボイルについて90℃位で30分間位の加熱殺菌処理〔【0002】〕等が挙げられている。)を想定しているとはおよそ考えられず、実際、甲4には、レトルトやボイルを前提とする記載はない。
その上、甲3の【0044】には、「炭素の割合が50%より多い場合、バリア性が温度、湿度の影響を受け易く、15%より少ない場合、バリア性が悪くなり、膜質が脆くなる。」として、炭素が少なすぎると膜質が脆くなることが示唆されているのに対し、甲4の【0111】には、「オーバーコート層を構成する原子における、炭素原子に対する金属原子の比率(金属原子数/炭素原子数)は、0.1以上、2以下の範囲内であり、中でも0.5以上、1.9以下の範囲内、特には0.8以上、1.6以下の範囲内であることが好ましい。」という炭素原子に対する金属原子の比率(金属原子数/炭素原子数)を示す記載に引き続いて、「比率が上記範囲に満たないと、オーバーコート層の脆性が大きくなり、得られるオーバーコート層の耐水性および耐候性等が低下する場合がある。一方、比率が上記範囲を超えると、得られるオーバーコート層のガスバリア性が低下する場合がある。」として、金属原子に対して炭素原子の数が過剰に多くなるとオーバーコート層の脆性が大きくなって、ガスバリア性の低下につながる旨の記載があるところ、これは、上記甲3の【0044】の記載と正反対の内容である。
そうすると、当業者において、甲3発明の食品包装材料についてボイル又はレトルト用途とすることを想起したとしても、甲4におけるオーバーコート層を構成する原子における金属原子の比率は加熱によってもガスバリア性が維持されるかどうかとは関わりのないものであること、甲4には、炭素原子と金属原子の比率と、膜質の脆性について、甲3と正反対の記載があることに鑑みても、甲3発明とは技術分野も積層構造も異なる真空断熱材用外包材に関する甲4の積層体の中から、オーバーコート層付きフィルムの中のオーバーコート層及び無機層に関する記載に着目した上、オーバーコート層における炭素原子に対する金属原子の比率(金属原子数/炭素原子数)を参酌して、甲3発明に適用する動機付けを導くには無理があるというほかなく、本件決定の判断には誤りがある。
エ 被告は、Si/Cの数値範囲に特段の技術的意義はなく、層構成に係る共通の技術について「Si/C」を用いて数値範囲を検討することが甲4にあるとおり公知であることを併せると、甲3発明において甲4記載事項を参考にして、相違点1-2に係る本件発明の構成とすることは、当業者が容易に想到し得た旨主張する。
被告が、Si/Cの数値範囲に特段の技術的意義はないと主張する根拠は、①本件発明1の発明特定事項が「バリアコート層が、金属アルコキシドと水溶性高分子との樹脂組成物から構成されるガスバリア性塗布膜であるか、または、金属アルコキシドと、水溶性高分子と、シランカップリング剤との樹脂組成物から構成されるガスバリア性塗布膜」と択一的なものになっており、シランカップリング剤には珪素が含まれるにもかかわらず、本件明細書上効果が確認されているのはシランカップリング剤を含むバリアコート層だけであるという点、②本件発明1の数値範囲は甲3から簡単に算出でき、甲4にも同数値範囲内のものが例示されているという点にある。
しかし、上記①についていえば、シランカップリング剤が珪素を含むというような一般論だけで、シランカップを含むものであるバリアコート層の効果に係る【表4】~【表7】の結果、及びSi/Cの数値範囲の効果に係る【表5】~【表7】が、シランカップ剤を含まないバリアコート層について技術的意義がないとは直ちにいえないし、そもそも、技術的意義が裏付けられているかどうかと、構成が容易想到といえるかどうかの問題は直結するものではない。
また、上記②についていえば、甲3発明の「X線光電子分光分析法」の分析における「炭素と酸素と珪素が、それぞれ15~50%、30~65%、5~30%の割合で存在すること」から、珪素原子と炭素原子の比(Si/C)は、0.1以上、2以下と算出することができ、この数値範囲は、本件発明1の数値範囲である「0.90以上1.60以下」を包含するからといって、炭素と酸素と珪素の数値範囲で一定の技術的意義を示している甲3の記載から、炭素と珪素だけを抽出すべき合理的な理由、技術的な必然性は認められない。
甲4の表1には、30質量部(Si/C比率1.58)、38.5質量部(同比率1.25)及び50質量部(同比率1.03)という、本件発明1の数値範囲内のものが開示されているが、同表では膜特性は示されておらず、このSi/C比率で、本件発明1の数値範囲外の他の質量部より優れていることが示されているわけでもないから、当業者が当該数値に着目するともいえない。
そして、甲3とは「層構成に係る発明である」という程度の共通性しかない甲4に「Si/C」を用いて数値範囲を検討することが記載されていたからといって、当業者において甲4記載事項を参考にして相違点1-2、相違点1-3に係る構成とすることが容易に想到できるとはいえない。
3 検討
本判決の判断の主要な点は、甲3発明と甲4の技術分野が共通するとはいえず、甲4記載事項は、相違点1-3に係る構成、すなわち、積極的に加熱殺菌処理をするレトルトやボイルという高温での処理が想定されていないため、甲3発明に甲4記載事項の珪素原子の比率を適用することはできないというものである。
しかし、上記に加えて述べられた、被告の主張に対する判断も注目すべき内容であると考える。本判決は、「本件発明1の数値範囲は甲3から簡単に算出でき、甲4にも同数値範囲内のものが例示されている」という被告の主張に対し、甲3の記載から算出される「数値範囲は、本件発明1の数値範囲である「0.90以上1.60以下」を包含するからといって、炭素と酸素と珪素の数値範囲で一定の技術的意義を示している甲3の記載から、炭素と珪素だけを抽出すべき合理的な理由、技術的な必然性は認められない」と述べた。甲3に記載された解決手段は、「炭素と酸素と珪素が、それぞれ15~50%、30~65%、5~30%の割合で存在する」という構成を含むものである(請求項1)。本判決は、炭素、酸素及び珪素の組合せにより効果を奏する甲3発明から、炭素及び珪素の割合のみを抽出し、その比率に基づき本件発明1の数値範囲と一致するということはできないということを意味する。しかし、文献に記載された発明から一部の条件を抽出して認定することが常に許されないということではないはずである。甲3は、請求項2において、「C-C結合とC-O結合が、35:50~50:35の割合で存在する」と規定されており、実施例においても「C-C結合とC-O結合」が分析されている。このことからすると、甲3発明は、C-O結合の存在を抜きにして語ることができない発明であり、酸素原子の存在割合を捨象すると発明の効果を奏しないことが明らかであるという面が考慮されたのではないかと考えられ、過度に一般化することはできないと思われる。
以上
弁護士 後藤直之