【平成30年3月12日判決(知財高裁 平成29年(行ケ)第10041、10042号)(審決取消請求事件)】

【要約】

 原告は、引用文献の実施例を再現実験することにより、被告の特許発明と引用文献に記載された発明との相違点が容易に予測されると主張したが、判決は、再現実験の結果について、「あくまで、原告が本件各発明を認識した上で本件特許の優先日後に行った実験の結果」と述べ、進歩性を肯定した。

【キーワード】

進歩性、広義の刊行物記載発明、技術的思想の認識

1 事案

 本件は、原告による被告の特許(以下「本件特許」という。)に対する無効審判請求により訂正後の請求項1ないし3について進歩性がないとして特許無効、請求項4及び5について請求不成立の審決がなされたため、双方が審決の取消しを求めて提起した訴訟である。本稿では、請求項1に関する以下の相違点⑵について述べる。
 訂正後の請求項1は、以下のとおりである。

 【請求項1】質量%で、C:0.15~0.5%、Si:0.05~2.0%、Mn:0.5~3%、P:0.1%以下、S:0.05%以下、Al:0.1%以下、N:0.01%以下を含有し、残部がFeおよび不可避的不純物からなる成分組成を有する部材を構成する鋼板の表層に、Ni拡散領域が存在し、前記Ni拡散領域上に、順に、Zn-Ni合金の平衡状態図に存在するγ相に相当する金属間化合物層、およびZnO層を有し、かつ25℃±5℃の空気飽和した0.5MNaCl水溶液中で示す自然浸漬電位が標準水素電極基準で-600~-360mVであり、優れた塗装密着性と塗装後耐食性を有するとともに、腐食に伴う鋼中への水素侵入が抑制されることを特徴とする熱間プレス部材。

 また、審決が認定した、引用例1に記載された引用発明は以下のとおりであり、当事者間に争いがない。

 mass%で、C:0.2%、Si:0.3%、Mn:1.3%、P:0.01%、S:0.002%、Al:0.05%、Ti:0.02%、N:0.004%を含有し、残部がFe及び不可避的不純物からなる成分組成を有する鋼板の表面に亜鉛-12%ニッケルめっきを50g/m²施しためっき鋼板を、大気炉で850℃、3分間加熱した後、熱間プレスを行った、酸化皮膜が形成され、塗膜密着性と塗装後耐食性を有する熱間プレス成形品。

 訂正後の請求項1に係る発明(以下「本件発明1」という。)と引用発明との相違点が、審決が認定した以下の相違点⑴~相違点⑶であることについて、当事者間に争いがない。

 相違点⑴
 部材を構成する鋼板が、引用発明では「Ti:0.02%を含有」するのに対し、本件発明1では、Tiを含有しない点。

 相違点⑵
 本件発明1では、「部材を構成する鋼板の表層に、Ni拡散領域が存在し、前記Ni拡散領域上に、順に、Zn-Ni合金の平衡状態図に存在するγ相に相当する金属間化合物層、およびZnO層を有し、かつ25℃±5℃の空気飽和した0.5MNaCl水溶液中で示す自然浸漬電位が標準水素電極基準で-600~-360mVである」のに対し、引用発明では、それが明らかではない点。

 相違点⑶
 本件発明1では、「優れた塗装密着性と塗装後耐食性を有するとともに、腐食に伴う鋼中への水素侵入が抑制される」のに対し、引用発明では、「塗装密着性と塗装後耐食性を有する」ものの、「腐食に伴う鋼中への水素侵入が抑制される」ことについては明らかではない点。

 原告は、相違点⑵に関し、Zn-Niめっき鋼板に熱間プレスを施した場合、Ni拡散領域、γ相、ZnO層が、下から上にこの順番で形成され、そのような表面構造を有するめっき部材が本件発明1の自然浸漬電位を有することは、当業者の技術常識に基づいて容易に予測されるものであり、甲2による引用発明の再現実験により、確かにこの表面構造が生成することが確認されている旨を主張した。

2 判決

ア 引用例1の記載
 引用例1には、①引用発明の課題は、難プレス成形材料について熱間プレスを行っても所定の耐食性を確保でき、外観劣化が生じない熱間プレス用の鋼材を提供することであり、具体的課題は、耐食性確保のための後処理を必要とせずに、難プレス成形材料である高張力鋼板の熱間プレス成形を可能とし、同時に耐食性をも確保できる技術を提供することであること(【0005】【0006】【0014】【0015】)、②鋼板の犠牲防食作用のある亜鉛系めっき鋼板に熱間プレスを適用することにより、めっき層表面に亜鉛の酸化皮膜が、下層の亜鉛の蒸発を防止する一種のバリア層として全面的に形成されること、また、めっき層は、かなり合金化が進んでおり、それにより、めっき層が高融点化してめっき層表面からの亜鉛の蒸発を防止しており、かつ鋼板の鉄酸化物形成を抑制していること、このようにして加熱されためっき層は、熱間プレス成形後においてめっき層と母材である鋼板との密着性が良好であること(【0016】~【0019】)、③実施例として、亜鉛-12%ニッケル合金めっきが具体的に記載されており、プレス成形性のすぐれた材料が得られ、成形品としてすぐれた塗膜密着性及び耐食性を示したこと(【0064】~【0067】)が記載されている。
 一方、引用例1には、引用発明が相違点⑵に係る構成、すなわち、引用発明の鋼板表面の皮膜状態の構造が、Ni拡散領域上に、順にγ相に相当する金属間化合物層及びZnO層を有しており、かつ、25℃±5℃の空気飽和した0.5MNaCl水溶液中で示す自然浸漬電位が標準水素電極基準で-600~-360mVであることを示す記載はなく、このことを示唆する記載もない。
イ 技術常識
 (中略)
 …本件優先日以前に頒布された刊行物である前記(ア)、(イ)及び(エ)記載の文献には、Zn-Niめっき鋼板の熱間プレス部材の表面構造に関する記載はない。したがって、これらの記載から、熱間プレス部材である引用発明の鋼板表面の皮膜状態の構造が、Ni拡散領域上に、順にγ相に相当する金属間化合物層及びZnO層を有しており、25℃±5℃の空気飽和した0.5MNaCl水溶液中で示す自然浸漬電位が標準水素電極基準で-600~-360mVであることが技術常識であったと認めることはできない。また、本件特許の優先日時点の当業者において、技術常識に基づき、引用発明の鋼板表面の皮膜状態の構造が、Ni拡散領域上に、順にγ相に相当する金属間化合物層及びZnO層を有しており、かつ、25℃±5℃の空気飽和した0.5MNaCl水溶液中で示す自然浸漬電位が標準水素電極基準で-600~-360mVであることを認識することができたものとも認められない。

ウ よって、相違点⑵は実質的な相違点ではないとはいえないし、相違点⑵につき、引用発明及び技術常識に基づいて当業者が容易に想到できたものということもできない
エ 原告の主張について
 …前記アにおいて認定したことに照らすと、当業者が、本件特許の優先日時点において、引用発明の鋼板表面の皮膜状態の構造が、Ni拡散領域上に、順にγ相に相当する金属間化合物層及びZnO層を有しており、かつ、25℃±5℃の空気飽和した0.5MNaCl水溶液中で示す自然浸漬電位が標準水素電極基準で-600~-360mVであることを引用発明が本来有する特性として把握していたと認めることはできない。
 また、甲2は、引用発明に係る亜鉛-12%ニッケル合金電気めっき鋼板につき、引用例1の【表1】及び【表5】に記載される鋼種Aの化学成分を狙い値として製造された鋼種(鋼種A)に対し、鋼板表面の皮膜状態の構造の調査を行った原告従業員作成の実験結果の報告書であるところ、甲2(表9、10)には、16個のうち6個の試料(A1~A4、B1、B11)について、その鋼板表面の皮膜状態の構造が、Ni拡散領域上に、順にγ相に相当する金属間化合物層及びZnO層を有しており、かつ、25℃±5℃の空気飽和した0.5MNaCl水溶液中で示す自然浸漬電位が標準水素電極基準で-600~-360mVであることが確認されたことが記載されている。
 しかし、甲2の記載は、あくまで、原告が本件各発明を認識した上で本件特許の優先日後に行った実験の結果を示すものであり、本件特許の優先日時点において、当業者が、引用発明の鋼板表面の皮膜状態の構造が上記のとおりであることを認識できたことを裏付けるものとはいえない。

3 検討

 知財高判平成26年9月25日・平成26年(ネ)第10018号によれば、先行技術文献に記載された実施例の再現実験により容易に知り得る構成は、特許法29条1項3号の「刊行物に記載された発明」と評価し得るものと解される。以下、同判決を少し広めに引用する。

 特許法29条1項3号は、「特許出願前に日本国内又は外国において頒布された刊行物に記載された発明・・・」については、特許を受けることができない旨規定している。同号の「刊行物に記載された発明」とは、刊行物に明示的に記載されている発明であるが、このほかに、当業者の技術常識を参酌することにより、刊行物の記載事項から当業者が理解し得る事項も、刊行物に記載されているに等しい事項として、「刊行物に記載された発明」の認定の基礎とすることができる。
 もっとも、本件訂正発明や乙1発明のような複数の成分を含む組成物発明の分野においては、乙1発明のように、本件訂正発明を特定する構成の相当部分が乙1公報に記載され、その発明を特定する一部の構成(結晶構造等の属性)が明示的には記載されておらず、また、当業者の技術常識を参酌しても、その特定の構成(結晶構造等の属性)まで明らかではない場合においても、当業者が乙1公報記載の実施例を再現実験して当該物質を作成すれば、その特定の構成を確認し得るときには、当該物質のその特定の構成については、当業者は、いつでもこの刊行物記載の実施例と、その再現実験により容易にこれを知り得るのであるから、このような場合は、刊行物の記載と、当該実施例の再現実験により確認される当該属性も含めて、同号の「刊行物に記載された発明」と評価し得るものと解される(以下、これを「広義の刊行物記載発明」ともいう。)。
 これに対し、刊行物記載の実施例の再現実験ではない場合、例えば、刊行物記載の実施例を参考として、その組成配合割合を変えるなど、一部異なる条件で実験をしたときに、初めて本件訂正発明の特定の構成を確認し得るような場合は、本件訂正発明に導かれて当該実験をしたと解さざるを得ず、このような場合については、この刊行物記載の実施例と、上記実験により、その発明の構成のすべてを知り得る場合に当たるということはできず、同号の「刊行物に記載された発明」に該当するものと解することはできない。

 本件において発明の進歩性を否定する根拠となった引用発明が記載された引用例1には、相違点⑵に係る構成が記載されていなかったが、原告が引用発明の再現実験を行ったところ、相違点⑵に相当する構成が確認されたため、審決は、相違点⑵は実質的相違点とはいえないと判断した(原告もその旨主張)。本判決では、審決と異なり、「引用発明の鋼板表面の皮膜状態の構造が上記のとおりであることを認識できたこと」が裏付けられていないことを理由として、原告の主張が排斥されており、主引用発明の再現実験の結果のみから広義の刊行物記載発明が認定されるのではなく、先行技術文献から技術的意義が認識できることが必要と解されたものとも読むこともできる。
 しかしながら、本判決の裁判体の裁判長を務めた髙部眞規子弁護士は、昨今、このすぐ後に出された、先使用権において技術的思想の同一性が必要とされたものと理解されることも多かったピタバスタチン事件控訴審判決(知財高判平成30年3月3日・平成29年(ネ)第10090号)について、「数値が技術的意義を有するものと先使用者が認識している必要があるとする判例評釈もあるが、同判決は、認識まで要求したつもりではなかったし、そのような判示はしていない」[1]と述べていることにも注意が必要であると考えられる。本件は、先使用権の事件ではないが、技術的意義の認識が必要であるということに主眼が置かれた判決であるかどうかは、改めて考えてみると、そう簡単ではないようにも思われる。
 判決文から甲2の内容は明らかでないが、被告が「上記試料のうち、引用発明の再現実験といえるのは6試料のみであり、他の10試料は、引用発明から鋼種、Ni含有量、加熱条件を変更したものであるから、引用発明の再現実験とは到底いえず、本件発明1に導かれて行われた、いわゆる後知恵実験に相当するものである」と主張していることも踏まえると、主引例1に記載された内容だけでは相違点⑵に相当する構成が必ず確認できるとは言えなかった(原告による広義の刊行物記載発明としての立証が不十分であった)という事情もあったのではないかという推測もあり得る。「甲2の記載は、あくまで、原告が本件各発明を認識した上で本件特許の優先日後に行った実験の結果を示すものであ」るとの記載には、言外の意味が込められている可能性があり、「原告が本件各発明を認識した上で本件特許の優先日後に行った」という文言のみを取り出して独り歩きさせるべきではないように思われる。

以 上

弁護士 後藤直之


[1] パテントVol.77(別冊No.30)1頁