【平成31年(行ケ)第10011号(知財高判R2・2・25)】

【キーワード】
 CRISPR-Cas9,29条の2,実質的同一

1 事案の概要

 本件は,ブロード研究所によるCRISPR-Cas9関連出願の拒絶審決が争われた2件の審決取消訴訟のうちの1件であり,拒絶審決が取り消された事件である。
 審決と判決の結論の違いは,CRISPR-Cas9発明の29条の2適用判断において,引用発明の「約30~約120ヌクレオチド長」のガイドRNAの第二及び第三領域と,本件発明の「tracr配列が30以上のヌクレオチドの長さを有」するとの発明特定事項とが実質的な相違点であるか否かという点であった。当該点について,特許庁は,実質的相違点ではないとして本願発明が29条の2に該当すると判断した一方,裁判所は,実質的相違点であるとして,29条の2には該当しないと判断した。

 

2 本願発明

「【請求項1】
 エンジニアリングされた,天然に存在しないクラスター化等間隔短鎖回分リピート(CRISPR)-CRISPR関連(Cas)(CRISPR-Cas)ベクター系であって,/a)真核細胞中のポリヌクレオチド遺伝子座中の標的配列にハイブリダイズする1つ以上のCRISPR-Cas系ガイドRNAをコードする1つ以上のヌクレオチド配列に作動可能に結合している第1の調節エレメントであって,
 前記ガイドRNAが,ガイド配列,tracr配列及びtracrメイト配列を含む,第1の調節エレメント,/b)II型Cas9タンパク質をコードするヌクレオチド配列に作動可能に結合している第2の調節エレメントであって,前記タンパク質が,核局在化シグナル(NLS)を含む,第2の調節エレメント/を含む1つ以上のベクターを含み;/成分(a)及び(b)が,前記系の同じ又は異なるベクター上に位置し,/前記tracr配列が,30以上のヌクレオチドの長さを有し,/それによって,前記1つ以上のガイドRNAが,真核細胞中の前記ポリヌクレオチド遺伝子座を標的とし,前記Cas9タンパク質が,前記ポリヌクレオチド遺伝子座を開裂し,それによって,前記ポリヌクレオチド遺伝子座の配列が,改変され;前記Cas9タンパク質及び前記1つ以上のガイドRNAが,いっしょに天然に存在しない,/CRISPR-Casベクター系。」

 

3 引用発明及び本願発明と引用発明との一応の相違点

(1)引用発明
「(i)少なくとも1つの核局在化シグナルを含む少なくとも1つのII型Cas9タンパク質をコードする核酸に操作可能に連結されたプロモーター調節配列を含むベクター,及び,/(ⅱ)真核細胞中の染色体配列中の標的部位に相補的である5’末端における第一の領域,ステムループ構造を形成する第二の内部領域,及び本質的に一本鎖のままである第三の3’領域を含む少なくとも1つのガイドRNAをコードするDNAに操作可能に連結されたプロモーター調節配列を含むベクター,/を含むベクター系であって,前記ガイドRNAの第二及び第三領域の合わせた長さが,約30から約120ヌクレオチド長の範囲であり,前記ガイドRNAが,II型Cas9タンパク質を真核細胞中の染色体配列中の標的部位へ誘導し,そこで該II型Cas9タンパク質が,該標的部位にて染色体DNA二本鎖の切断を誘導し,該二本鎖の切断が,染色体配列が修飾されるようにDNA修復過程により修復される,ベクター系。」

(2)本願発明と引用発明との一応の相違点
「本願発明は「tracr配列が,30以上のヌクレオチドの長さを有」するものであると下限値が特定されているのに対して,引用発明1では,本願発明の「tracr配列」に相当する部分の長さについて明確な特定はないものの,「第二及び第三領域」の合わせた長さが「約30から約120ヌクレオチド長の範囲」である限りにおいて,30ヌクレオチドよりも短い場合をも包含する点。」

 

4 一応の相違点に関する審決の要旨(特許庁の主張)

「本願発明と引用発明1は,本願発明の「tracr配列」に相当する部分の長さに関して重複関係にあるから,本願発明が特許を受けるためには,長さの下限値を30ヌクレオチド長と特定することにより,30ヌクレオチドよりも短い場合をも包含する引用発明1とは異なる新たな効果を有することが必要である。
 26ヌクレオチド長のtracr配列を有するガイドRNA(+48)と,32ヌクレオチド長のtracr配列を有するガイドRNA(+54)とで,プロトスペーサー2,4及び5を標的としたものでは差異を見出せない(図16,図17)。そして,30以上のヌクレオチド長と特定する本願発明においては,標的配列に依存することなく,改変効率が向上するとの効果を有しているとはいえない。」

 

5 裁判所の判断

「2 取消事由1(引用発明1に基づく特許法29条の2の判断の誤り)について
・・・
カ 以上によれば,引用例1には,上記アないしオの構成の記載があるから,本件審決が認定したとおりの発明(引用発明1)が記載されているものと認められる。
⑷ 本願発明と引用発明1との対比
・・・
ケ 小括
 以上によれば,本願発明と引用発明1は,本件審決が認定したとおり(前記第2の3⑵イ)一致し,次のとおり(同ウ)の相違点を有する。
 (相違点)
 本願発明は「tracr配列が,30以上のヌクレオチドの長さを有」するものであると下限値が特定されているのに対して,引用発明1では,本願発明の「tracr配列」に相当する部分の長さについて明確な特定はなく,「第二及び第三領域」の合わせた長さが「約30から約120ヌクレオチド長の範囲」である点。
⑸ 相違点の検討
 ア 特許法29条の2は,特許出願に係る発明が,当該特許出願の日前の他の特許出願又は実用新案登録出願であって,当該特許出願後に特許掲載公報,実用新案掲載公報の発行がされたものの願書に最初に添付した明細書又は図面(以下「先願明細書等」という。)に記載された発明又は考案と同一であるときは,その発明について特許を受けることができないと規定する。同条の趣旨は,先願明細書等に記載されている発明は,特許請求の範囲以外の記載であっても,出願公開等により一般にその内容は公表されるので,たとえ先願が出願公開等をされる前に出願された後願であっても,その内容が先願と同一内容の発明である以上,さらに出願公開等をしても,新しい技術をなんら公開するものではなく,このような発明に特許権を与えることは,新しい発明の公表の代償として発明を保護しようとする特許制度の趣旨からみて妥当でない,というものである。同条にいう先願明細書等に記載された「発明」とは,先願明細書等に記載されている事項及び記載されているに等しい事項から把握される発明をいい,記載されているに等しい事項とは,出願時における技術常識を参酌することにより,記載されている事項から導き出せるものをいうものと解される。
本願明細書の【0162】には,tracr配列の長さとゲノム改変効率の関係について,「EMX1およびPVALB遺伝子座中の5つ全ての標的について,tracr配列長さの増加に伴うゲノム改変効率の一貫した増加が観察された」との一般的な説明がなされ,特に,ゲノム改変効率の増加が優れるものとして,nが67,85,すなわちtracr配列の長さが45,63のキメラRNAをとりあげて,「野生型tracrRNAのより長い断片を含有するキメラRNA(chiRNA(+67)及びchiRNA(+85))は,3つ全てのEMX1標的部位におけるDNA開裂を媒介し,特にchiRNA(+85)は,ガイド及びtracr配列を別個の転写物中で発現する対応するcrRNA/tracrRNAハイブリッドよりも顕著に高いレベルのDNA開裂を実証した(図16b及び17a)。ハイブリッド系(別個の転写物として発現されるガイド配列及びtracr配列)を検出可能な開裂を生じなかったPVALB遺伝子座中の2つの部位も,chiRNAを使用してターゲティングした。chiRNA(+67)及びchiRNA(+85)は,2つのPVALBプロトスペーサーにおける顕著な開裂を媒介し得た(図16c及び17b)。」との説明が加えられている。
 そして,本願明細書の図16や図17を参照すると,プロトスペーサー1やプロトスペーサー3を標的とした場合については,nが+67,+85である場合のみならず,nが+54,すなわちtracr配列の長さが32のキメラRNAである場合も,nが+48,すなわちtracr配列の長さが26のキメラRNAを上回る改変効率が得られていることを見て取ることができ,本願発明がtracr配列につき30以上のヌクレオチドの長さに設定したことによって引用発明1とは異なる新たな効果を奏していることも理解できる。
 このように,本願発明は,「tracr配列の長さ」に着目し,「tracr配列が,30以上のヌクレオチドの長さを有」するものという構成を採用したことによって,ゲノム改変効率が増加することを特徴とするものである。
 他方,引用例1には,ガイドRNAが第一領域から第三領域までの3つの領域を含むこと(【0067】),ステムの長さは約6から約20塩基対長であってよいこと(【0069】),一般的に,第三の領域は,約4ヌクレオチド長以上であり,例えば,第三の領域の長さは,約5から約60ヌクレオチド長の範囲であるとすること(【0070】),ガイドRNAの第二及び第三領域の合わせた長さは,約30から約120ヌクレオチド長の範囲であり得ること(【0071】)が記載されているにすぎない。
 ウ また,本願明細書【0063】の「ループの3’側の配列の部分は,tracr配列に対応する」の記載によれば,本願発明のtracr配列は,引用発明1の第二領域の片方のステムと第三領域を合わせたものに相当すると認められる。しかし,引用例1には,tracr配列(第二領域の片方のステムと第三領域を合わせたもの)の長さそれ自体を規定するという技術思想が表れてはいない。
 さらに,本願優先日当時,tracr配列の長さを30以上のヌクレオチドの長さとするとの当業者の技術常識が存在したことを認めるに足りる証拠はない。
 エ よって,引用例1に「tracr配列が,30以上のヌクレオチドの長さを有」するものという構成を採用したことが記載されているといえないし,技術常識を参酌することにより記載されているに等しいともいえない。」

 

6 検討

 CRISPR-Cas9発明の29条の2適用判断において,引用発明の「約30~約120ヌクレオチド長」のガイドRNAの第二及び第三領域と,本件発明の「tracr配列が30以上のヌクレオチドの長さを有」するとの発明特定事項とは,「約30~約120」と「30以上」というように,技術的な背景を取り去って数字だけを比較すると,実質的な相違点ではないように見受けられる。
 しかしながら,裁判所は,上記点を実質的相違点であると判断した。裁判所は,まず,本願明細書の記載から,本願発明が,tracr配列の長さに着目し,tracr配列が30以上のヌクレオチドの長さを有するものという構成を採用したことによって,ゲノム改変効率が増加することを特徴とするものであると認定した。
 そして,引用発明には,ガイドRNAの第二及び第三領域の合わせた長さが,約30から約120ヌクレオチド長の範囲であり得ることが記載されているにすぎず,この「第二及び第三領域の合わせた長さ」が,「tracr配列」に相当することを認めつつも,引用例1には,tracr配列(第二領域の片方のステムと第三領域を合わせたもの)の長さそれ自体を規定するという技術思想が表れてはいないと判断した。そして,引用例1に「tracr配列が,30以上のヌクレオチドの長さを有」するものという構成を採用したことが記載されているといえないし,技術常識を参酌することにより記載されているに等しいともいえないと結論付けた。
 このように,一見すると,引用発明と本願発明との間で数値範囲が重複していても,引用文献や本願明細書の詳細な記載内容から,各発明の技術思想や効果に鑑みて,実質的相違点と判断されることがあるので留意が必要である。

以上
(文責)弁護士 篠田 淳郎