【平成29年3月27日判決(東京地裁平成26年(ワ)第15187号)】

【事案の概要】

 本件は、被告の従業員であった原告が、被告の保有する我が国の特許4件(特許第3516808号、特許第1883267号、特許第2140108号及び特許第2139646号。以下、この順に「本件特許1」、「本件特許2」、「本件特許3」及び「本件特許4」という。また、これらの各特許に係る発明をそれぞれ「本件発明1」、「本件発明2」、「本件発明3」及び「本件発明4」という。)、米国の特許1件(米国特許第6288165号。以下「本件米国特許」という。また、この米国特許に係る発明を「本件米国発明」という。)及び欧州の特許2件(欧州特許第751153号及び欧州特許第146138号。以下、それぞれ「本件欧州特許1」及び「本件欧州特許2」という。また、これらの各欧州特許に係る発明をそれぞれ「本件欧州発明1」及び「本件欧州発明2」という。

 なお、以上の各特許を全て併せて「本件各特許」といい、以上の各発明を全て併せて「本件各発明」という。)に関し、自らはこれらの発明者(共同発明者)の一人であり、遅くとも各特許出願日までに原告が有していた特許を受ける権利(特許を受ける権利の原告持分)を被告に承継させたとして、被告に対し、特許法35条(平成16年法律第79号による改正前のもの。以下同じ。)3項に基づき、次の①ないし⑦のとおり、相当の対価合計1億3664万3802円のうち1500万円及びこれに対する訴状送達の日の翌日である平成26年6月24日から支払済みまでの民法所定年5分の割合による遅延損害金の支払を求める事案である。

①  本件発明1について、3206万3283円のうち500万円を請求

②  本件発明2について、9396円のうち2500円を請求

③  本件発明3について、3万1680円のうち2500円を請求

④  本件発明4について、1万8300円のうち2500円を請求

⑤  本件米国発明について、6378万5786円のうち500万円を請求

⑥  本件欧州発明1について、4062万8557円のうち499万円を請求

⑦  本件欧州発明2について、10万6800円のうち2500円を請求

 

【争点】

 本件の争点は、以下のとおりである。

(1)本件発明1等の相当の対価の額(争点1)

(2)本件発明2等の相当の対価の額(争点2)

(3)本件発明3の発明者性及び相当の対価の額(争点3)

(4)本件発明4の発明者性及び相当の対価の額(争点4)

(5)本件各相当対価請求権の放棄の有無(争点5)

(6)本件各相当対価請求権の消滅時効の成否等(争点6)

 本稿では、「(5)本件各相当対価請求権の放棄の有無(争点5)」について取り上げる。

 

【判決一部抜粋】(下線は筆者による。)

第1 請求

・・(省略)・・

第2 事案の概要等

・・(省略)・・

2 前提事実(当事者間に争いのない事実並びに掲記の証拠及び弁論の全趣旨により容易に認められる事実。なお、書証番号は、特記しない限り枝番の記載を省略する。また、証人Bの証言、証人Cの証言及び原告本人尋問の結果については、証人調書及び本人調書の別紙速記録中、当該供述が記載された該当頁を付記する。)

・・(省略)・・

(5)特許補償金の支払等

ア 原告は、平成12年8月24日付けで、要旨次の内容が記載された承諾書(乙8。以下「本件承諾書」という。)を作成し、被告に提出した。

 (ア) 被告を退職するに当たって、「従業員の発明考案取扱規定」の規定に基づく補償金(以下「特許補償金」という。)につき、同規定15条(退職者の取扱い)に付属する「改定『従業員の発明考案取扱規定』の実施要領」Ⅲ-7項(退職する従業員の取扱い)の規定及び「退職する従業員の取扱い(補償金支払い)及び中間製品の売上相当額の取扱いの確認」に基づき、別表に記載の特許・実用新案・意匠(出願を含む。)に関する特許補償金の支給を受けたことに相違ありません。

 (イ) 別紙〈クラレ退職者および関連会社転籍者への特許補償金の支払いについて〉の「退職者の取扱いに関する実施要領の概要」における区分(2)のなお書きでいう登録補償金及び同(3)-4でいう特Aランクの補償金を除き、被告に特許等を受ける権利を譲渡した原告の発明・考案・意匠等に関し、今後、被告に対して、「従業員の発明考案取扱規定」等に基づく一切の要求をしません。

イ 原告が平成11年3月15日に被告を退職した後、被告は、原告に対し、次のとおり、本件発明1ないし4に対する特許補償金(実績補償金)(以下、併せて「本件補償金」という。)を支払った。

 (ア) 平成12年9月29日、本件発明4に対する実績補償金として5万円(甲14)

 (イ) 平成20年10月31日、本件発明2に対する実績補償金として3万6000円、本件発明3に対する実績補償金として9万3333円(甲15、16)

 (ウ) 平成21年4月10日、本件発明1に対する実績補償金として6万円(甲18)

・・(省略)・・

 

4 争点に関する当事者の主張

・・(省略)・・

(5) 争点5(本件各相当対価請求権の放棄の有無)について
 【被告の主張】本件各相当対価請求権の放棄の有無
 原告は、平成12年8月24日付けで、被告に対し、本件各発明について特許補償金を受領し、その余の請求権が存在しない旨確認した本件承諾書を提出した。これは、原告が本件各相当対価請求権を放棄する旨の意思表示をしたものということができる。
 なお、本件各特許は、本件承諾書にいう「特Aランク」には該当しない。また、相当対価請求権自体は、職務発明による特許を受ける権利が使用者である被告に帰属する旨を定めた職務発明取扱規程に基づいて発生し、特許法35条3項は、その対価額を修正する規定にすぎないと解されるし、本件承諾書において「『従業員の発明考案取扱規定』等に基づく一切の要求」と、「~等」や「一切の」という文言を用いているのは、放棄する権利が、「従業員の発明考案取扱規定」に基づく請求権に限られず、特許法35条に基づく相当対価請求権をも含む趣旨である。
 また、本件承諾書に関する原被告間のやりとりは郵送でされたものであり、原告の自由な意思によって被告に対する本件承諾書の提出がされた。
 さらに、被告が本件補償金を支払った趣旨は、職務発明規程による支払の対象外である既退職者に対し、その在職中の労に報いる趣旨で任意に支払ったものにすぎず、原告が相当対価請求権を有することを前提としたものではない。
 【原告の主張】
 従業者等と使用者等との間には、その有する情報の量や質、交渉力における格差が存在することに照らすと、従業者等が相当対価請求権を有効に放棄したとするためには、従業者等の自由な意思に基づくものであることが明確でなければならない。
 ところが、本件承諾書は、「『従業員の発明考案取扱規定』等に基づく一切の要求」をしないと定めるのみであり、特許法35条3項で法定された債権である相当対価請求権の行使については何ら規定するものではなく、この「~等」や「一切の」という文言が個別具体的にどのような要求を指すのかは明確ではない。そして、これは退職手続として提出される定型的な文書で、上記文言が印刷されていたものであるが、上記文言がどのような要求を指すのかについての説明も一切なかった。
 しかも、本件承諾書は、「特Aランクの補償金」のように、売上・利益の貢献が顕著な発明については、その後も請求することを認めている。
 また、原告は、被告に対し、退職後である平成20年11月5日、本件発明1の対価について問合せをし、被告はこれについて調査して実績補償金を支払っている。このような事実からも、原告が本件各発明の相当対価請求権を放棄する意思がなかったこと、被告が原告の相当対価請求権が放棄されたものとして取り扱ってはいなかったことが明らかである。
 したがって、原告は、本件承諾書の提出によって本件各相当対価請求権を放棄する旨の意思表示をしたものではない。

・・(省略)・・

 

第3 当裁判所の判断

・・(省略)・・

6 争点5(本件各相当対価請求権の放棄の有無)について

 以上によれば、原告は、被告に対し、平成12年8月24日当時、本件米国発明、本件欧州発明1及び本件欧州発明2の各相当対価請求権を有していたところ、被告は、原告が同日付けで被告に対し本件承諾書を提出したことをもって同各相当対価請求権を含む本件各相当対価請求権を放棄する旨の意思表示をしたと主張する。

 しかしながら、前記前提事実(5)アによると、本件承諾書(乙8)には、「今後、被告に対して、『従業員の発明考案取扱規定』等に基づく一切の要求をしません。」との記載部分があるものの、この「『従業員の発明考案取扱規定』等に基づく一切の要求」に特許法35条4項に基づく法定の相当対価請求が含まれていることが明示されているわけではなく、上記記載部分から直ちに、同相当対価請求権の放棄という重大な効果が生じたと即断することはできない。

 そこで更に検討するに、前記1(4)で認定した事実によると、本件においては、本件承諾書の後も、平成20年10月に、被告が原告に対して本件発明2及び本件発明3を含む3件の特許発明に対する実績補償金の支払をし、同年11月には、原告が被告に対し「確か7か国に出願したと思います」と明記して本件発明1等に対する実績補償金に関して問合せをし、これを受けて平成21年4月に被告が原告に対して本件発明1に対する実績補償金の支払をしたというのである。

 そうすると、原告が被告に対し本件承諾書の提出をもって本件各相当対価請求権を放棄する旨の意思表示をしたと認めることはできない。

・・(以下、省略)・・

 

【検討】

 本件は、被告である会社が、被告の従業員であった原告に対し、本件各発明について特許補償金を受領し、その余の請求権が存在しない旨確認した本件承諾書を提出したこと等を理由に「原告が本件各相当対価請求権を放棄する旨の意思表示をしたものということができる」と主張したのに対し、裁判所は、原告による本件承諾書の提出をもって本件各相当対価請求権を放棄する旨の意思表示をしたと認めることはできない、と判断した点に特徴がある。

 通常、会社の従業員が業務上行った発明については、会社の就業規則や職務発明規程において、特許を受ける権利は会社に帰属するものとし、他方、会社から従業員に対して相当の金銭その他の経済上の利益(以下「相当の利益」という。)を提供することが定められているのが一般的である。もっとも、退職者に対する相当の利益の取扱いについては各社様々であり、従業員の退職にあたり、相当の利益に関する誓約書・承諾書等を提出させる運用がなされている場合もある。

 本件で、裁判所は、原告による本件承諾書の提出をもって、本件各相当対価請求権を放棄する旨の意思表示をしたと認めることはできない、と判断するための事情として、以下の事実を挙げている。

・本件承諾書には、「今後、被告に対して、『従業員の発明考案取扱規定』等に基づく一切の要求をしません。」との記載部分があるものの、この「『従業員の発明考案取扱規定』等に基づく一切の要求」に特許法35条4項に基づく法定の相当対価請求が含まれていることが明示されているわけではないこと

・本件承諾書の後も、被告が原告に対して本件発明2及び本件発明3を含む3件の特許発明に対する実績補償金の支払をし、原告が被告に対し「確か7か国に出願したと思います」と明記して本件発明1等に対する実績補償金に関して問合せをし、これを受けて被告が原告に対して本件発明1に対する実績補償金の支払をしたこと 等

 このように、本件承諾書の文言や、本件承諾書の提出後の原告及び被告の行動・両者のやり取り等が挙げられている。また、裁判所は、「上記記載部分から直ちに、同相当対価請求権の放棄という重大な効果が生じたと即断することはできない。」と述べており、従業員の相当対価(相当の利益)請求権を重要な権利と捉えていることがわかる。会社としては、「今後、会社に対して、『従業員の発明考案取扱規定』等に基づく一切の要求をしません。」というような文言を記載した誓約書・承諾書を従業員に提出させたとしても、必ずしも従業員の相当対価(相当の利益)請求権が放棄されたことにはならない点に留意すべきである。

 本件は、職務発明制度の見直しに係る平成27年特許法改正前の事案であるが、退職者に対する相当の利益の取扱いを定める会社の立場、及び会社に対して相当の利益を請求する従業員の立場の双方から参考になる判決である。

                                            以上         弁護士・弁理士 溝田尚