【平成30年10月22日判決(平成29年(行ケ)第10106号) 審決取消請求事件】
【キーワード】
進歩性、医薬、用法用量特許、実験成績証明書
【判旨】
本件は、HER2タンパクを標的とした抗体医薬と、化学療法剤との組合せ投与に関する用法用量特許の進歩性が争われたものである。本件発明は、(a)抗体医薬による治療、(b)外科治療、(c)抗体医薬又は化学療法剤による治療の順で投与することを特定していた。
判決は、抗体医薬を開示する文献と、その術前投与の有効性を説明する文献とに基づき、本件発明の構成が容易想到であると述べた上で、効果についても、明細書には定性的な効果のみが記載されておらず、薬理データの記載がないことから、実験成績証明書の参酌を否定して進歩性を認めなかった。
進歩性判断において、事後に提出された実験データをどの程度参酌するかについての一例として参考になる。
第1 事案の概要
1 本件特許発明1
【請求項1】
ErbB2タンパク質が発現した乳腫瘍であると診断されたヒトの患者を治療するための,治療的有効量のヒト化4D5抗ErbB2抗体を含有してなる医薬であって,該治療が(a)該医薬によって患者を治療する,(b)外科的に腫瘍を除去する,及び(c)該医薬又は化学療法剤によって患者を治療するという工程を順次行うことを含む治療である,医薬。
2 判旨抜粋
(1)甲1発明の認定
…甲1には,次の甲1発明が記載されていると認められる。
「HER2が過剰発現した乳腫瘍であると診断されたヒトの患者を治療するための,治療的有効量のヒト化4D5抗HER2抗体を含有してなる医薬であって,その治療が(a)その医薬,又は,その医薬及び治療的有効量のパクリタキセル,アントラサイクリン,シクロホスファミド,ドキソルビシン,エピルビシン等の化学療法剤によって患者を治療するという工程を含む治療である,医薬。」
(2)本件特許発明1と甲1発明との相違点の認定
本件特許発明1と甲1発明とを対比すると,下記アの点で一致し,下記イの相違点1で相違する。
ア 一致点
「ErbB2タンパク質が発現した乳腫瘍であると診断されたヒトの患者を治療するための,治療的有効量のヒト化4D5抗ErbB2抗体を含有してなる医薬」である点
イ 相違点1
その医薬を,本件特許発明1では,(a)その医薬によって患者を治療する,(b)外科的に腫瘍を除去する,及び(c)その医薬又は化学療法剤によって患者を治療するという工程を順次行うことを含む治療に適用するのに対し,甲1発明では,このような工程を順次行うことを含む治療に適用することが特定されていない点。
(3)相違点1の容易想到性について
甲1に接した当業者は,HER2蛋白を過剰発現する手術可能乳がんの治療のために,治療的有効量の抗HER2抗体を含有する医薬である甲1発明の医薬を適用することを容易に想到するものと認められる。
…甲1に接した当業者が,HER2蛋白を過剰発現する手術可能乳がんの治療のために,手術前に甲1発明の医薬を化学療法剤と併用投与し,手術を行い,更に手術後に甲1発明の医薬を化学療法剤と併用投与することは,容易に想到し得たものと認められる。
(4)本件特許発明1の効果について
…本件訂正明細書には,本件特許発明1の効果として,臨床試験の結果などは示されておらず,「上記の治療方法に従って治療された患者は,全体的に改善された生存者,及び/又は腫瘍の進行時間(TTP)の延長を示すであろう。」(【0119】)との記載があるにとどまる。
ところで,…乳がんにおいて,生存率及び腫瘍の進行時間(TTP)は,抗がん剤の効果を図る一般的な指標であると認められるところ,上記の本件訂正明細書の記載は,生存率の改善及び腫瘍の進行時間(TTP)の延長がいかなる対象(例えば,手術のみを行った場合か,手術と術後化学療法を行った場合か,術前化学療法と手術と術後化学療法を行った場合か,術前化学療法と手術と抗HER2抗体の術後投与を行った場合か,手術可能乳がんに対し抗HER2抗体投与のみを行った場合か)と比較して達成されるものであるのかという比較対象や,生存率の改善や腫瘍の進行時間(TTP)の延長がいかなる程度達成されるのかという有効性の程度については,何ら記載されていない。また,本件訂正明細書の記載から,その比較対象や有効性の程度を当業者が推論できるものとも認められない。
そうすると,本件特許発明1の効果は,本件特許発明1の医薬がこれを投与しない場合と比較して生存率の改善及び腫瘍の進行時間(TTP)の延長という定性的効果を有することにとどまるものとするのが相当である。
そして,…甲1には,HER2蛋白を過剰発現する腫瘍を有する転移性乳がん患者に対し,甲1発明の医薬を特定の化学療法剤(1パクリタキセル,2アントラサイクリン〔ドキソルビシン又はエピルビシン〕及びシクロホスファミド)と併用投与すると,その化学療法剤を単独投与された患者に比べ,病勢進行の期間が著しく長期化し,1年間の生存率が高まることが記載されているから,当業者は,甲1発明の医薬が,HER2蛋白を過剰発現する転移性乳がん患者に対し,生存率の改善及び腫瘍の進行時間(TTP)の延長という定性的効果を有することを理解することができ,この甲1発明の医薬を本件特許発明1の工程によりHER2蛋白を過剰発現する手術可能乳がんに適用した場合に,これを投与しない場合と比較して生存率の改善及び腫瘍の進行時間(TTP)の延長という定性的効果を有することは,当業者が予測可能なものである。
被告は,本件訂正明細書の発明の効果の定性的な記載に基づき,具体的な実験データを参照することは妥当であるから,甲17,19…に基づき本件特許発明1には顕著な効果があるなどと主張する。
しかし,…本件訂正明細書の記載及びこれから推論できる本件特許発明1の効果は,本件特許発明1の医薬がこれを投与しない場合と比較して生存率の改善及び腫瘍の進行時間(TTP)の延長という定性的効果を有することにとどまる。そこで,本件優先日後の刊行物である甲17,19…の実験データを,本件訂正明細書の記載の範囲で,上記定性的効果を示すという限度において参酌するとしても…上記定性的効果は当業者が予測可能なものであるから,顕著な効果を示すものということはできない。他方,甲17,19…の実験データを,上記定性的効果を超えて参酌することは,本件訂正明細書の記載の範囲を超えるものであるから,これを本件特許発明1の効果として参酌することはできない。その余の本件優先日後の刊行物である甲18,20,21…についても,同様である。
したがって,本件優先日後の刊行物である甲17~21…については,その具体的内容を検討するまでもなく,本件特許発明1に顕著な効果があることを示すものということはできない。
(5)本件特許発明1についての小括
以上によると,本件特許発明1は,甲1発明及び甲1~4に記載された事項に基づいて,当業者が容易に発明をすることができたものであると認められる。
第2 検討
一般に、進歩性判断において、顕著な効果の有無を検討するにあたっては、事後における実験データの提出が許されるものと解されており、特許庁の審査基準においても、明細書又は図面の記載から当業者が推論できる限りにおいて、事後に提出した実験成績証明書の参酌が許されるものと述べられている(第Ⅱ部第2章2.5(3))。
しかし、明細書の記載から、どの程度まで実験データの記載の参酌が許されるのかについては、統一した基準がない。
例えば、知財高裁平成22年7月15日判決(平成21年(行ケ)10238号)は、日焼け止め組成物の発明に関し、明細書中に「驚くべきことに,本組成物が優れた安定性(特に光安定性),有効性,及び紫外線防止効果(UVA及びUVBのいずれの防止作用を含めて)を,安全で,経済的で,美容的にも魅力のある(特に皮膚における透明性が高く,過度の皮膚刺激性がない)方法で提供することが見出されている」との記載があったところ、「実験の結果によれば,本願発明の作用効果は,①本願発明(実施例1)のSPF値は『50+』に,PPD値は『8+』に各相当し,従来品(比較例1~4)と比較すると,SPF値については約3ないし10倍と格段に高く,PPD値についても約1.1ないし2倍と高いこと(広域スペクトルの紫外線防止効果に優れていること)…を示しており…顕著な効果を有している」と述べて、事後に提出された実験データに基づき、定量的な効果を認定した。
一方、知財高裁平成17年11月8日判決(平成17年(行ケ10389号)では、エテンザミドとトラネキサム酸とを併用した解熱鎮痛消炎剤の発明に関し、明細書中に、同発明の実施例は記載されていたものの、エテンザミドとトラネキサム酸とを併用しない解熱鎮痛消炎剤の比較例が存在しなかった。そこで、原告は、同比較例の結果を実験データとして提出したが、裁判所は、「本願明細書には,エテンザミドを採用することが,それ以外のサリチル酸系抗炎症剤を採用することと比較して,格別に顕著な効果を奏するものであることをうかがわせるような記載はないから,原告の主張は,本願明細書の記載に基づかないものである」と述べてこれを排斥した。
前者の裁判例は、明細書に定性的な効果の記載があるのみで、事後に同効果を立証する実験データの提出を許すものである。一方、後者の裁判例は、実施例が存在しても、比較例について事後の主張を許さないものである。
これに対し、本件では、明細書中に定性的な効果記載のみがあり、実施例が存在しなかった事案であるところ、「上記定性的効果を示すという限度において参酌する」と述べて、定性的効果のみを参酌した。
実験成績証明書を提出する目的は、明細書中に記載された効果の真実性を立証することが目的の場合と、更に進んで、効果の顕著性を立証することが目的である場合とが考えられる。特に、先行技術にも同様の効果が認められる場合、単に明細書中記載の効果の真実性を立証するだけでは足りず、先行技術と比較して定量的に優れた効果を有することを立証したい場合がある。
このような場合、本件の判断に従えば、定量的な効果を進歩性の根拠とする場合には、その数値が明細書に記載されている必要がある。先行技術は出願時に網羅できるものではないから、全ての先行技術についてこれを比較例として記載しておくまでの必要があるわけではないと思われるが、定量的な効果を主張すべき発明であれば、少なくとも明細書に実施例(ないし薬理データ)を記載しておくことを求めても、出願人に酷であるということはないように思われる。
以上
(文責)弁護士・弁理士 森下 梓